グジャラートの征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 03:07 UTC 版)
アクバルはラージャスターンとマールワーを平定したのち、グジャラート征服へと目指した。アラビア海に面したグジャラート地方は海外交易の拠点都市が多数あったばかりか、メッカ巡礼の出発地点でもあり、帝国の発展には欠かせない地域でもあった。1571年、アクバルはグジャラート征服のため、アーグラからファテープル・シークリー移った。 アクバルの治世下、グジャラート地方を支配していたのはグジャラート・スルターン朝(アフマド・シャーヒー朝)であった。このグジャラート・スルターン朝は父帝フマーユーンも戦闘を交えた相手であったが、征服はできずにいた。だが、グジャラート・スルターン朝は混乱状態にあり、大ジャーギールダール(有力者)のイティマード・ハーンは政敵と争うため、アクバルに支援を求めて介入するよう促した。 1572年7月、アクバルはグジャラートへ出陣し、11月にグジャラート・スルターン朝の首都アフマダーバードに入城した。このとき、彼はイティマード・ハーンをはじめとして帰順してきた者らを厚遇した。 アクバルはその後もグジャラート征服を進め、12月グジャラートの港市カンバート(カンベイ)を制圧した。このとき、彼は船をカンベイ湾に浮かべて海を見たが、そのころにポルトガル商人らが皇帝の軍営にあいさつにやって来た>。 翌1573年2月、アクバルは港市スーラトを包囲し、制圧した。この包囲のさなか、ポルトガルのゴア副王から使節が送られ、アクバルに敬礼して贈物を捧げていた。 6月、アクバルは首都ファテープル・シークリーに帰還して凱旋した。だが、間もなく反乱が起きたため、8月に再びアクバル自ら選りすぐりの精鋭を率いて首都を出た。このときの遠征軍はインド屈指の強行軍として知られ、一日平均80キロで進軍し、わずか11日でアフマダーバードを制圧した。 アクバルは首都に帰還し、その際に腹心のトーダル・マルを首都から呼び出して戦後処理にあたらせた。トーダル・マルは半年の間、現地で行政の指導にあたらせたが、このとき得た経験はその後の帝国制度における行政改革に生かされた。 グジャラートの征服は帝国にとって重要なものであった。この征服により、帝国は西方に領土を拡張したのみならず、港市スーラトなどの西方諸港を通して行う海洋諸国との貿易を行うことが出来るようになり、その関税収入は莫大なものであった。
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