クーネオへの進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/09 08:02 UTC 版)
「マドンナ・デル・オルモの戦い」の記事における「クーネオへの進軍」の解説
ピエモンテへの侵攻計画はフランスの山岳戦専門家であるピエール=ジョゼフ・ブルセ(英語版)によって立てられた。ピエモンテに侵攻する軍にとって、一番の問題は山道を越えることにあった。たとえ少数の守備軍でも進軍を阻止することができたのである。ブルセの考えは、3万3千対2万5千という優勢では侵攻軍を数手に分けて進軍することが最も効果的である、というものだった。後世が浸透戦術と呼ぶこの戦術では、サルデーニャ軍を容易に包囲することができ、最も予想されない場所から攻撃できる。そして、前線全体に圧力をかけることによって、サルデーニャ軍の守備はどこかで破綻をきたし、そこで軍を合流させて一気に突破できる。 この考えを目頭に置き、フランスとスペインの連合軍は6月にドーフィネ地域で集結、続いてブリアンソンとサン=テティエンヌの間の前線に進んだ。7月5日、連合軍は9個縦隊に分けて出発、ピエモンテの中心地へと向かった。コンティ公とラ・ミナ侯は口論したが、初期ではいくつかの勝利を得た。連合軍はストゥーラ・ディ・デルモンテ川(英語版)まで進むと、広さ6メートルの隘路(英語版)に直面した。ブルセの助言に従い、隘路の南北に位置する部隊は山を進んでサルデーニャ軍の後ろまで進み、サルデーニャ軍も罠にはまることを避けるべく戦闘せずに撤退した。そして、今度も指導に従い、連合軍はストゥーラ河畔に集中してサルデーニャ軍の守備の綻びを利用しようとした。 連合軍は7月19日にはカステルデルフィーノの戦いで勝利、さらにクーネオまでの最後の要地であるデモンテが8月17日にコンティ公に降伏した。
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