カルロス・クライバー
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カルロス・クライバー(Carlos Kleiber、出生名:カール・ルートヴィヒ・クライバー(Karl Ludwig Kleiber)、1930年7月3日 ベルリン - 2004年7月13日 コニシツァ)は、ドイツ出身の指揮者。第二次世界大戦期にアルゼンチンに亡命し、後に父の国籍であるオーストリア国籍を取得した(居住はしていない)。父は世界的な指揮者であったエーリヒ・クライバー[1]。
注釈
- ^ たとえば、音楽之友社が数年置きに評論家アンケートを実施して発行している「名曲名盤300」2011年版では、彼の数少ない公式録音のうち、曲自体がマイナーなため対象外となったドヴォルザークのピアノ協奏曲を除く全ディスク(ただし、2点のニューイヤーコンサートライブは1巻にまとめられたもの)が各作品の1位を占め、しかも大部分は他を圧した高得点を得ている。これには映像ソフトしか存在しないモーツァルトやリヒャルト・シュトラウスは含まれない。
- ^ 他方、英語版記事の中に「96回のコンサートと約400回のオペラ公演」との記述があり(2022年2月7日(UTC)2:00閲覧)、今なお複数資料に拠る比較検討の余地がある。
- ^ 特に本番前は非常にナーバスな状態になっていたようである。それを例証するものとして以下のようなエピソードがある。1970年代、バイエルン国立歌劇場との「ばらの騎士」の本番前に、同劇場の音楽監督であったヴォルフガング・サヴァリッシュが彼の楽屋を訪れた。二人は丁寧な挨拶をし、篤い握手を交わし、舞台袖までサヴァリッシュはついて行った。カルロスは開演が近づくにつれ狼狽しはじめたが、サヴァリッシュが「大丈夫だから!」と背中を押して無理やり指揮台へと向かわせたという。
- ^ テレーズ事件とは、クライバーがウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番をレコーディングしていた際に起こった事件のことである。第2楽章の伴奏のフレーズを「テレーズ、テレーズ」というリズムで演奏するようクライバーは指示したのだが、オケは「マリー、マリー」としか演奏できなかった(セッションだったためリハーサルからレコーダーが回っており、没後制作のドキュメンタリー"I am lost to the World"で初めて紹介。「何故この通りに出来ないのか」など苛立ったクライバーの様子が聴く事が出来る)。そのためクライバーは指揮棒を真っ二つに折って帰ってしまったという。なお、レコーディングを引き継いだのはマゼールだったが、事情を聞いた彼は「それじゃあ私はマゼール、マゼールでいってみようか」と冗談めかしたという。カルロス指揮の歌劇公演を招聘し個人的にも親交のあった佐々木忠次は著書の中でカルロス本人から電話で「ウィーン・フィルと日本に行くつもりだったが、団員と喧嘩したので予定されていた日本公演では指揮したくない」と経緯を聞き、カルロスと関係の良好だったバイエルン国立管弦楽団との86年の来日を企画したと記している。
- ^ カルロスの没後ウィーン・フィルは定期演奏会(2004年9月)でカルロス哀悼のため、ニコラウス・アーノンクール(カルロスと同じベルリン生まれで1歳年上)の指揮で、「フリーメイスン葬送音楽」を演奏した。
- ^ 自分が所有するパート譜を使わせるのも、ブルーノ・ワルターら19世紀生まれの大指揮者達が行っていたことである。ただしカルロスがウィーン楽友協会の資料室を頻繁に訪れ、作曲家の自筆資料を調べていた事を館長のオットー・ビーバ博士が証言しており、父からの遺産だけに頼らず独自に楽譜や解釈に磨きをかける努力を重ねていた事が判る。金子建志はベートーヴェンの交響曲第5番のウィーン・フィル盤で第1楽章34小節のホルンに朝顔状の極端なクレッシェンドを付けて吹かせている点に言及し、自筆スコアなどベートーヴェンが関わった初期資料にしか存在せず当時普及していた楽譜(ブライトコプフ&ヘルテル社のベートーヴェン全集に基づく)では落とされていたクレッシェンドの反映が自筆スコアを研究した成果であると指摘している。他にもベートーヴェンの交響曲では4番第4楽章のティンパニ、7番第2楽章最後のヴァイオリンのピツィカート、シューベルトの『未完成』でも多くのデクレッシェンドをアクセントと読んている点など自筆資料の研究成果とみられる。全てピリオド楽器のオーケストラによって考証と演奏が行われる前の事である。
- ^ ただし、上記のように賛辞を述べながらも、公演のキャンセルを繰り返すクライバーを評して「彼は冷蔵庫が空になるまで指揮をしようとしない」と皮肉を言ってもいる(もちろん悪意によるものではないであろうが)。
- ^ クライバーが来日した回数は上記の通りであるが、もっともこれは公演を行った来日に限定しており、もっと頻繁にお忍びで来日して日本観光を楽しんでいた。和食・日本酒などを好み、箱根の温泉がお気に入りだったという。一度だけ、お忍び来日しているところを偶然ミュンヘン・フィルを率いて来日中だったセルジュ・チェリビダッケとバッティングしたことがある。1992年のことである。
- ^ もっとも、広瀬勲によれば、“おしのび”来日は頻繁というほどでなく、彼の記すところ2回程度である[5]。
- ^ 一時期話題になったこの「田園」は、彼自身指揮するつもりはなかったが、息子にせがまれたため渋々指揮したという逸話がある。死の前年発売されたCDの音源は部分的にカルロスの息子が所有していたカセットテープからも取られており、娘のリリアンが解説を寄せている。
- ^ 収録は1996年10月、ミュンヘン。一般公開ではなくウニテル社のプライヴェート・コンサートだったがHD収録の映像は日本ではNHKで数回放映されており、フィルム調に色彩調整・プログレッシヴ化された版も2011年4月に開局直後のBSプレミアムで放送された。DVDでは5.1chのサラウンド音声も収録している。1989年、ベルリン・フィルとのコンサート以後カルロスは同じ曲目を繰り返し指揮している。1996年4月、息子が関係者ということで指揮することになったアウディ主催のコンサートも曲目は同じ。この時は出演の条件として同社の最高級車(A8)を贈られ、さらには工場見学までしたという逸話が残されており、この一件について「高級車と引き換えに指揮をする」と揶揄する声もある。カルロスの自動車好きは事実であり、アウトバーンを猛スピードで走ることも珍しくなかったが、アウディの依頼に関しては車に加え多くの高額なオプションを要求した挙句「これらのものが用意出来なければ車くらい自前で買える」と締め括った書簡がドキュメンタリーで紹介されており、断るつもりで無茶な要求を衝き付けた挙句要求通りのものが揃えられ、指揮せざるを得なくなったという経緯が覗くのである。
出典
- ^ DG. “Biography”. www.deutschegrammophon.com. www.deutschegrammophon.com. 2024年3月31日閲覧。
- ^ ドキュメンタリーに出演した主治医の証言。ただ「肝臓癌」とする記事は多い。
- ^ KAWADE夢ムック, pp. 196–223「カルロス・クライバー 全演奏記録」を参照。
- ^ 評論家吉田秀和は著書「オペラ・ノート」(白水社)の中で「世界でいちばん優雅な指揮者」と評している。
- ^ KAWADE夢ムック, p. 66.
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ “Carlos Kleiber - I Am Lost To The World (2010)”. 2020年1月3日閲覧。
- ^ “指揮者村中大祐の世界”. 2023年5月15日閲覧。
- ^ “Georg Wübbolt”. 2020年1月3日閲覧。
- ^ “Georg Wübbolt”. IMDb.com, Inc.. 2020年1月3日閲覧。
- ^ “Traces to Nowhere - The conductor Carlos Kleiber, with English subtitles (HD 1080p)”. 2020年1月4日閲覧。
- ^ “Eric Schulz”. IMDb.com, Inc.. 2020年1月4日閲覧。
- ^ “Veronica Kleiber”. 2020年1月4日閲覧。
- 1 カルロス・クライバーとは
- 2 カルロス・クライバーの概要
- 3 評価
- 4 ドキュメンタリー
- 5 脚注
カルロス・クライバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:48 UTC 版)
「代紋TAKE2」の記事における「カルロス・クライバー」の解説
傭兵。江原が雇ったフランスの民間軍事会社、エグゼクティブ・デルタ社に所属する傭兵部隊のリーダーで、階級は大佐。圧倒的な戦闘力と豊富な軍事知識を持っており、江原の依頼を受け、部下達と共に東京を大混乱に陥れた。丈二とすれ違った際に何かを感じ、彼を警戒するようになる。後に日本から脱出するにあたって、丈二との決着をつけるために部下と別れて阿久津組及び千葉阿久津連合の組員達を相手に単身で辺りを火の海に巻き込んで多くの組員を殺害した。最終的には丈二を追って燃え盛るデパートに侵入し、そこに潜んでいた丈二と一騎打ちでは当初は軍人としての戦闘力で戦闘を有利に運ぶが、ガスマスクの死角を突いた丈二に日本刀で両腕を切り落とされた末に刺殺された。
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カルロス・クライバー
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「レナード・バーンスタイン」の記事における「カルロス・クライバー」の解説
12歳下であるカルロス・クライバーをバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮したプッチーニの「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、1992年1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリが来日した。
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