エレファンティネ島西岸 ナバータート島(キッチナー島) から見たエレファンティネ島のヌビア人の村 エレファンティネ島 (ギリシャ語 : Νησί Ελεφαντίνη , ラテン文字転写 : Nēsí Ēlephantínē 、アラビア語 : جزيرة الفنتين , ラテン文字転写 : Gazīrat il-Fantīn )は、ナイル川 の下流域にある川中島 である。東側の対岸にアスワン の町がある。島の南端部には、主に新王国時代 に建てられたクヌム神殿 遺跡やナイロメーター の遺跡がある。なお、現地ではアスワーン島(Jazīrat Aswān [1] )が正式な名称である。
エレファンティネ島はナイル川の第1急湍(英語版 ) を構成する無数の島や岩礁の1つであり、当該第1急湍の北端に位置する。古代エジプト の地理概念では、エレファンティネ島が上エジプト の南端であり、第1急湍を越えてナイル川をさかのぼるとそこは「ヌビア 」と呼ばれる地域であった。また、エレファンティネ島には上エジプト第1行政区(ノモス )の主都が置かれた[2] 。
地理 エレファンティネ島はエジプト の南部に位置するナイル川 の中洲となる島である[3] 。南西から北東に長い島であり、ナイル川の第1急湍(英語版 ) (カタラクト、英 : cataract )の終端部を構成している。島の西側には、島全体が植物園になっているナバータート島(キッチナー島) がある[3] 。南側には無数の小島や岩礁が浮かんでおり、東側の対岸にはアスワン の中心市街がある[2] 。アスワンはもともとエレファンティネ島に従属する集落に過ぎなかったが、現在は都市化が進み、エレファンティネ島をその行政区の1つに取り込んでいる。
エレファンティネ島は観光業が盛んである。アスワンから島に橋は架かっていないが、ファルーカ と呼ばれる三角帆の小型船に乗ってナイル川を渡河できる[3] 。主要な観光資源としては、島の南端にあるクヌム 神の神殿跡のほか、サテト神殿(英語版 ) 、アスワン博物館(英語版 ) 、パームヤシ の木で囲まれた2つの「ヌビア人(英語版 ) の村」、アスワン・ダム 建設以前のヌビア人の日常生活を紹介するアニマリア博物館などがある[3] 。島の北端部には大きなホテルがある[3] 。
地名 エレファンティネ島 ヒエログリフ で表示 エレファンティネ島のサテト女神の神殿にあったファラオのレリーフ。ルーヴル美術館蔵。 エレファンティネ島には第11王朝 と第12王朝 のレリーフがあるため、エジプト中王国 時代にも記念碑が建てられたことが判明している。エジプトがヌビアを属領とした中王国時代には、ヌビアを支配するための行政庁がエレファンティネ島に置かれた[5] 。
エジプト新王国時代 にもエレファンティネ島には数多くの神殿が建てられることになる。新王国時代の神殿がクヌム に捧げられた神殿である。その周りには、ハトシェプスト とトトメス3世 の時代に建てられたアヌケト 神に捧げられた神殿と、神殿と同じ様式でアメンホテプ3世 の頃に建てられた商業施設が配置された[5] 。時と共に街は大きくなり、ナイル川を越えて東側に拡がった。このナイル東岸の街は、のちにシュエネ(アスワン の古称)になった。
ネクタネボ はクヌム神殿の修復をした。クヌムはナイル川の源流を守る神であり、急流の主である。クヌムの従神、アヌケトとサテトの神殿もまた、ネクタネボにより修復された。
プトレマイオス朝エジプト の時代には、エレファンティネ島と東岸シュエネを合わせた町はますます発展した。この頃、島の南岸にイシス を祀る神殿が建てられた。有名なエレファンティネ島のナイロメーター はこのイシス神殿のものである。なお、エレファンティネ島のナイロメーターの存在はよく知られているが、当時ナイル川に面したエジプトの神殿はどこも1つはナイロメーターを備えていた[6] 。
トトメス3世 とアメンホテプ3世 の神殿は、19世紀 まで見ることができたが、近代エジプトにおける工業化の必要性から、完全に取り壊されることになった。20世紀初頭にエレファンティネ島で発掘調査が行われ、古代ペルシア の統治下にあった時代(第31王朝 )のアラム語 のパピルス が大量に見つかった(エレファンティネ文書 )。これによると、紀元前6世紀までエレファンティネ島にはユダヤ人 のコロニーがあり、クヌム神殿のそばに YHWH を祀る大きな神殿があったことがわかった[7] 。
島の周辺の遺跡 エレファンティネ島にある遺跡 初期の王朝の頃から、エレファンティネ島は「ノマルケス」(νομάρχης あるいはヘリー・テプ・アー)という地方長官が支配することになっており、古王国 (第6王朝)から中王国 (第12王朝 )までの時代の地方長官の墓が、島の東側の対岸に面した土手の斜面に作られている。この墓所は「クベット・エル=ハワ(英語版 ) [8] 」 (Qubbet el-Hawa) と呼ばれ、発掘調査がされている。
ノマルケスの墓所は、洞窟内にある地下墳墓 である。第6王朝のサブニとメクの二重墓のように、柱や支柱で支えられた非常に広い部屋もある。第12王朝のサレンプト1世の墓も広く、ベニー・ハサン村 にある、彼が代理人を務めた王たちの墓に劣らないくらいである。
なお、墓には番号が付されており、Sarenpout Ier は no 36、Pepynakht (Hekayib) は no 35、Herkhouf, Khunes, Sarenpout II は no 31、Sabni は no 25、 Mekhou は no 26 である。ナイル川の土手からクベット・エル=ハワに向かって、浮き彫りで飾られた参道が作られている。夜間はアスワンの町から見えるように参道が照明で照らされる。
クベット・エル=ハワの西、ナイル川から2キロメートル行った小高くなった場所に、聖シメオン修道院 (Deir Amba Samaan) がある。この修道院はエジプトがキリスト教化された時代の重要な遺跡の1つである。修道院は、高さ6-7メートルの壁で囲まれており、要塞化されている。壁は下の方が石でできていて上にレンガが積まれている。この修道院は紀元8世紀に建てられたエジプトで最も大きい修道院の1つである。壁の内側に入ると、高さの異なる3段のテラス状の敷地がある。最下段のテラスには3つのネフを有する教会が建っている。教会の建物は堂宇のほかは修道士が寝泊まりする部屋になっている。他のテラスには、料理をしたり買い物をしたりするための施設があり、屋台やオリーブを絞る施設もある。修道院は紀元12世紀には遺棄されたものとみられる。
参考文献 Jean-Marie Brunier, La Stèle. Histoire de la colonie juive d'Égypte , Toulouse, Athor Éditions, 2011 ISBN 978-2-9538171-0-2 出典 座標 : 北緯24度5分24秒 東経32度53分24秒 / 北緯24.09000度 東経32.89000度 / 24.09000; 32.89000
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