エルサレム巡礼の断念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 18:39 UTC 版)
「ラッバーン・バール・サウマ」の記事における「エルサレム巡礼の断念」の解説
バグダードに到着した後、2人はメソポタミアの都市を見聞し、各地の景教寺院や修道院を訪問した。 預言者エゼキエルの墓(en:Ezekiel's Tomb) アルビール モースル ニシビス(英語版) メソポタミアの都市を訪問した2人は東に引き返し、モースル近郊のタリルの聖ミカエル修道院に落ち着いた。しばらくの間、彼らは聖ミカエル修道院の僧房で生活するが、マール・デンハの要請を受けて、イルハン朝のハン(君主)・アバカの元へ赴いた。アバカから受け取ったマール・デンハの法王の地位の承認状を使者に託した後、彼らはアバカの親書を携えて改めてエルサレムに向おうとするが、巡礼の旅は困難を極める。当時のシリア北部は治安が極めて悪いために陸路でエルサレムに到達できる状態ではなく、黒海方面から海路でエルサレムに向おうとした。アルメニアのアニ(英語版)を経由してグルジア王国に入るが、 盗賊が多く出没するため通行が不可能な状態であり、黒海沿岸部の港に到達することはできなかった。 バグダードに戻った2人はマール・デンハの歓迎を受けるとともに、多くの聖地と聖遺物を礼拝したことはエルサレム巡礼と並ぶ価値があると諭され、エルサレム巡礼を断念した。そして、1279年にサウマは巡回総管大主教、「ヤバラーハー」の名前を与えられたマルコスは中国北部の大主教の職に任命された。マール・デンハは彼らを元へ使者として送ろうとするが、道中で起きた元軍とカイドゥ軍の戦闘が出発できず、彼らは2年の間聖ミカエル修道院に留まった。
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