エドワード殉教王とは? わかりやすく解説

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エドワード殉教王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 01:19 UTC 版)

エドワード殉教王
 : Edward the Martyr
14世紀前半に描かれたエドワード殉教王の肖像画

先代 エドガー平和王
次代 エゼルレッド無策王

出生 962年
死亡 978年3月18日
享年16歳
イングランド
ドーセット地方
コーフ城
埋葬 ウェアハム英語版(移葬)
シャフツベリ英語版(移葬)
ウォーキング英語版[1]
王室 ウェセックス家
父親 エドガー平和王
母親 エセルフリーダ
又は
エディス英語版
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殺害される寸前のエドワード殉教王(『フォックスによる殉教者伝』(en)より)

エドワード殉教王(エドワードじゅんきょうおう、英語: Edward the Martyr, 962年頃 - 978年3月18日)は、イングランド王(在位:975年 - 978年)で、聖公会カトリック教会正教会における聖人。正教会では致命者として記憶される。

生涯

975年に父エドガーが死去すると宮廷貴族の間で王位継承争いの危機が生じたが、カンタベリー大司教ダンスタンの努力によって13歳のエドワードが即位した。しかし978年には弟エセルレッドを擁立した継母エルフリーダ英語版によって暗殺される。エドワードは「善きキリスト教徒」であると考えられ、さらに「彼の遺体を巡っていくつかの奇蹟が発現した」とされたために、1001年6月21日列聖された。

奇蹟とされる記録

978年3月18日、エドワードはドーセットにある狩猟場で狩りを楽しんだ後、王位をめぐり対立関係にある異母弟エセルレッド(継母エルフリーダの息子)を訪ねた。猜疑心を持ち合わせていなかったエドワードが勧められるままに馬の背上で蜂蜜湯を飲んでいると、継母エルフリーダの手下たちがエドワードの背中に短剣を突き刺して殺害した。エドワードの遺体は、盲目の女性がエルフリーダの慈悲により暮らしていた近くの小屋に運ばれたが、その時最初の奇蹟が起きた。その晩、小屋はこの世のものとは思えない光に包まれ、盲目の女性は視力を回復していた(その後その場所にはセント・エドワード教会が建設された)。遺体は小屋からウェアハムにある湿地帯に移されて埋められたが、その1年後に湿地帯に突然火柱が立ち上がった。驚いた住人が火元を掘り起こすとエドワードの遺体が発見されたという。その場所からは泉が湧き出し、エドワードの死を悼む人々がたくさん訪れた。

脚注

  1. ^ a b Weir, Alison (1989). Britain's Royal Families. Vintage. p. 22. ISBN 9780099539735 



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