ウリエル・アコスタ
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ウリエル・アコスタ(Uriel AcostaまたはUriel da Costa、1585年–1640年4月)は、ポルトガル出身のユダヤ人思想家、哲学者。生まれた時にガブリエル・ダ・コスタと名づけられる。
- 1 ウリエル・アコスタとは
- 2 ウリエル・アコスタの概要
- 3 著作
ウリエル・ダ・コスタ
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ポルトガルのウリエル・ダ・コスタ(ウリエル・アコスタ)は、キリスト教徒の父とアヌシームの母との間にガブリエルの名で生まれ、キリスト教的な教育のもとで育てられた。ポルト大学で教会法を学び、ポルト大聖堂の会計士を務めていた。しかし、学問を励むにつれてユダヤ人である自らのルーツに目覚め、ついには家族と共にユダヤ教への改宗を決心する。おりしもスペインでは異端審問の渦中にあり、ダ・コスタはアムステルダムに逃亡せざるを得なくなる。彼はそこでガブリエルからウリエルに改名している。しかし、アムステルダムのユダヤ人社会で目の当たりにしたラビによるユダヤ教(正統派ユダヤ教)が、自らが思い描いていた理想的なそれとはかけ離れていることに愕然とする。そこで1616年、トーラーではなく口伝律法に依存した正統派ユダヤ教に対する10か条の抗議文をしたためた。アムステルダムのラビらはダ・コスタに対して文章の撤回を要求するが、彼が拒否したためにヘーレムを科すに至る。このヘーレムは母親にも科されたため、彼女が亡くなった当初はアムステルダムでの埋葬を拒否されたりもした。ダ・コスタはヘーレムが10年も継続された頃になると共同体への復帰を望み、公式な儀式のもと自らの過ちを告白することで賢者らの合意を取り付けている。
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