ウェンスレーデール事件
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一代貴族(Life Peer)の先例は14世紀から存在するが、1758年にエリス・バーミンガムが一代限りのアイルランド貴族爵位としてブランドン女伯爵(Countess of Brandon)に叙されたのを最後に19世紀半ばまで例がなくなっていた(1876年以前の一代貴族(英語版)参照)。また過去の一代貴族の多くは女性だった(女性は貴族院議員とはならない)。そういう中で近代において最初に一代貴族の問題が貴族院の俎上にのったのは1856年のウェンスレーデール事件だった。この事件の概要は以下のとおりである。 貴族院(当時の貴族院は最高裁判所でもあった)に法律家が少なくなっていたことを憂慮した首相第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルは、ヴィクトリア女王に奏請して裁判官サー・ジェームズ・パーク(英語版)を1856年1月16日の勅許状で一代貴族のウェンスレーデール男爵(Baron Wensleydale)に叙させた。この時代には異例である一代貴族としたのはパークの息子がすでに死んでいて爵位継承できる者がなかったこと、世襲貴族にしてしまうと財産面で体面を保たねばならなくなり、裁判官に過ぎないパークではそれほどの財産は用意できないだろうと配慮したためだった。 だが、これは貴族院から大変な反発を招いた。貴族院はウェンスレーデール男爵を議員として認めるかどうかを特権委員会に付託。同委員会はパークを一代貴族とする勅許状も、またそれに基づいて発行される議会招集状も彼を貴族院議席に座らせることはできないと結論した。2月25日に貴族院はこの特権委員会の結論を承認した。この貴族院の強硬な反発を憂慮したヴィクトリア女王は、7月23日に改めて通常の世襲貴族爵位のウェンスレーデール男爵位をパークに与えることで事件を落着させた。 この時、貴族院が一代貴族に反対したのはシドニー・ベイリー(Sydney Bailey)によれば次の諸点であった。 過去の先例は一代貴族任命の例であり、一代貴族に貴族院議席を与える例ではない。したがってパークの場合にこの先例を引用できない。 なぜ適当な人物を通常の形で世襲貴族にしないのか。子孫が貴族の権威を保つだけの財産を持ちえないとすれば格下げすればよい。 世襲の原則は革命に対する強力な防塞である。政府に実質的な一代貴族任命権を認めることは、運用次第では貴族院の世襲的性格を弱め、貴族院の独立性を脅かすことになる。 貴族に二種類あることを認めるわけにはいかない。極端に言えば、世襲貴族は金持ちだが無能、一代貴族は貧乏だが有能と国民から囁かれることは認めがたい。 独立した判断を下せるのは富める者のみである。政府は有能だが貧乏な者を一代貴族にすることによって貴族院を自由に操縦できるようになるのではないか。 これらの理由は、この後も長く一代貴族制度が反対され続ける理由だった。
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