アッピアノスによる記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:06 UTC 版)
「アレティウムの戦い」の記事における「アッピアノスによる記録」の解説
アッピアノスはイタリアでのローマとガリアの戦いについて、またカエサルのガリア征服についても書いているが、彼の著作は断片的にしか残っておらず、十分な情報とは言えない。彼はこの紀元前283年の出来事についても記述してはいるが、場所までは特定してくれていない。彼の記述はローマの大使に降りかかった出来事と、アゲル・ガリクスに対するローマの施策に集中しているからである。 アッピアノスによると、ローマはセノネス族だけに特別な使者を送っていた。セノネス族がローマと和睦していたにもかかわらず反ローマ勢力に傭兵を提供していたため、それに対する抗議の使者であった。「先のエトルリアとの連合時にローマに父を殺されていたガリア人のブリトマリスは激怒し、使者を殺してしまった」とアッピアノスは記しているが、実は使者は囚われていた。彼の蛮族に対する偏見の現れであろう。ブリトマリスは正装した上で「使者を切り刻み、地にばら撒いた」とも記している。 紀元前283年の執政官、プブリウス・コルネリウス・ドラベッラは「サビニ領とピケナム(英語版)を経由してアゲル・ガリクスに急行し、火と剣でもってセノネス族を尽く征服し、女子供は奴隷に、男は例外なく殺し、彼の地をあらゆる手段でもって荒廃させ誰一人住めない土地とした」アッピアノスはこうも付け足している「その後、故郷を失い傭兵となっていたセノネス族は勇敢にももう一人の執政官ドミティウスに立ち向かったが敗北し、絶望の挙句自決した」。
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