アゼルバイジャンでの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:30 UTC 版)
「レズギ人」の記事における「アゼルバイジャンでの状況」の解説
レズギ人は「一般的に言えば」アゼルバイジャンの社会にうまく溶け込んでいる。異人種結婚もさらに一般的である。最後に、アゼルバイジャンのレズギ人は、ダゲスタンにいる同族と比較してより良いレベルの教育を受けている。 1992年に、サドヴァル(Sadval)という名前のレズギ人組織がレズギ人の権利を促進するために設立された。サドヴァルは、レズギ人が寄り集まって定住するロシアおよびアゼルバイジャンの地域を単一のレズギ国家として創設できるよう、ロシア-アゼルバイジャンの国境の引き直しを求める活動を行った。アゼルバイジャンではサムール(Samur)と呼ばれるより穏健な組織が結成され、アゼルバイジャンにいるレズギ人のためのより文化的な自治を提唱している。 レズギ人は昔から失業と土地不足に苦しめられた。1994年の第一次チェチェン紛争勃発の主な結果は、ロシア-アゼルバイジャン間の国境閉鎖であった。結果として、レズギ人は彼らの歴史の中で初めて、自分達の移動を制限する国際的な国境による分断を経験した。 アゼルバイジャンにおけるレズギ人動員の高まりは、1990年代末に過ぎ去ったとされる。サドヴァルは、バクー地下鉄の爆破事件に関与していたとの公式な申し立ての後、アゼルバイジャン当局により活動を禁止された。ナゴルノ・カラバフ戦争の終結と、強制徴兵に対するレズギ人の抵抗が、動員すべき重要問題の動きを奪った。1998年、サドヴァルは「中庸派」と「過激派」の両翼に分かれ、その後ロシア-アゼルバイジャン国境のどちら側でもその人気の大部分を失ってしまったようである。 しかし、アゼルバイジャン人とレズギ人の関係は、イスラム原理主義がレズギ人の間で不釣り合いな人気を享受していたという主張によって複雑であり続けた。2000年7月にアゼルバイジャンの治安部隊は、アゼルバイジャン国家に対する反乱を企てたとの容疑で、イスラムの戦士(Warriors of Islam)と名付けられた集団のレズギ人およびアバール人民族のメンバーを逮捕した。 レズギ人は、2005年11月の議会選挙で比例代表から漏れてしまった後にアゼルバイジャン議会(ミリー・メジリス)での代表議員が少なすぎることに懸念を表明した。前の国会ではレズギ人は2人の国会議員による代表となっていたが、現在は1人だけが代表である。 レズギ語はレズギ人が定住する多くの地域で外国語として教えられているが、教材は乏しい。レズギ語の教科書はロシアから来ており、現地の状況に適応していない。レズギ語の新聞は利用可能であるが、レズギ人はまた自分たちの豊かな口頭伝承の消滅に対して懸念を表明している。アゼルバイジャンで利用可能な唯一のレズギ語テレビ放送はロシアからの国境を越えて受信されるものである。 2006年3月、アゼルバイジャンのメディアは、サドヴァルがダゲスタンで作戦を実行する「地下」テロ組織を結成したと報じた。ダゲスタン国境を越えるロシアの治安部隊は、これらの報告に懐疑的に応対した。
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