『ユリシーズ』刊行
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「シルヴィア・ビーチ」の記事における「『ユリシーズ』刊行」の解説
シルヴィア・ビーチおよびシェイクスピア・アンド・カンパニー書店の最大の功績としてしばしば言及されるのは、1921年に「猥褻」であるとして発禁処分を受けたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を1922年にパリで刊行したことである。ビーチがジョイスに出会ったのは1920年7月のことであった。『ユリシーズ』が発禁となったとき、ビーチとモニエはパリで刊行のための支援を求めた。これに応じたのが、フランソワ・ビュリエが創設し、当時隆盛を極めていたダンスホール「バル・ビュリエ(フランス語版)」と「クロズリー・デ・リラ」であった。シェイクスピア・アンド・カンパニー書店からの刊行が決まったとき、ジョイスと親しくしていたフランス人作家で後に『ユリシーズ』のフランス語訳・監訳をすることになるヴァレリー・ラルボーは、彼が寄稿していた『新フランス評論』誌の編集長ジャック・リヴィエールに「英語圏の新しい文学において偉大な作家は一人しかいない。ジェイムズ・ジョイスである。(この冬に)『ユリシーズ』が刊行されたら、ジョイスは世界で最も有名な、顰蹙を買うほどに有名な作家になるだろう。『新フランス評論』誌はせっかくの機会を失ったのである」と書いている。『ユリシーズ』は1922年2月2日に1,000部限定でシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から刊行された。また、ラルボー監訳の仏語版『ユリシーズ』は、1929年、モニエの「本の友の家」から刊行された。
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