『カヴァレリア』の作曲
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「カヴァレリア・ルスティカーナ」の記事における「『カヴァレリア』の作曲」の解説
マスカーニが戯曲版『カヴァレリア・ルスティカーナ』上演を音楽学校の学生時代、1884年にミラノで観ていたのは確実であるが、彼が最初からタルジョーニ=トッツェッティにそれを提案していたかどうかははっきりしない。ニコラ・ミサージの『夫と司祭』(Marito e sacerdote )も有力な候補だった。また題材が決定する前からマスカーニは、後に『カヴァレリア』の有名な間奏曲となる美しい旋律をピアノ譜の形で書き出しているが、それが何らかのオペラに使用することを念頭においてだったのかは明確でない。このピアノ版の楽譜は現在全音楽譜出版社からプッチーニらのピアノ曲とともに出版されている(ISBN 4111069517)。 いずれにしても、タルジョーニ=トッツェッティはリヴォルノで戯曲版を観劇して同作に心酔、2人は同作品のオペラ化に集中することになる。リヴォルノで執筆するタルジョーニ=トッツェッティは台本が出来た部分からチェリニョーラのマスカーニに郵送、マスカーニがそれに曲を付けるという作業は1889年1月4日から始まった。締切まであと5か月、時間的余裕の無さに不安を感じた2人は、やはりリヴォルノ在の23歳の詩人グィド・メナッシ(イタリア語版)を仲間に引き入れる。 戯曲版はすでに凝縮されたドラマとしての完成度が高く、2人の若い台本作家チームが行った改変は、村人の合唱シーンを創出すること、トゥリッドゥと人妻ローラの逢引シーンをほとんど削除、代わりにトゥリッドゥが決闘前に母に別れを告げるシーンを拡充すること、に留まり、筋書の展開には手を加えることはなかった。つまり、今日の我々が「小説とオペラとの差異」と考えるものの殆どは、小説と戯曲版との相違に由来している。オペラ台本の完成は1889年3月中旬頃とみられる。マスカーニはこの頃、叔母の支援金でようやくアップライト・ピアノを借り、1日18時間の作曲作業をこなして、同年5月中旬には全曲を完成、5月27日にはコンクール事務局に郵送した。
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