「北平」と明の首都としての「北京」
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「北京の歴史」の記事における「「北平」と明の首都としての「北京」」の解説
14世紀に入ると、栄華を誇った元帝国は内乱と財政難、権力争い、そして漢民族に対する圧政に反抗する反乱が広がりを見せ、陰りが見え始めた。1368年にトゴン・テムル皇帝が北方へ逃げ落ちるとともに放棄された。そして、新たに朱元璋(太祖)が興した明帝国が、中華王朝として中国に君臨することとなった。当時の都は金陵(現在のの南京古城)が首都であり、その時点で北京は一地方都市としての格付けであった。そのため、新たな北京の主人となった明帝国のもとで「大都」の名は「北平」と改められた。 また、北京は市街地の規模を縮小されて、[疑問点 – ノート]明の皇帝・太祖の四男であった朱棣(後の成祖永楽帝)に与えられ、燕王としてこの地に封じた。太祖の死後、太祖の孫の朱允炆(建文帝)が皇帝に即位し、甥達にあたる[疑問点 – ノート]各国の王(粛王、秦王など)の反乱を恐れて次々と粛清し始めた。その事態に危機感をおぼえた朱棣が反乱を起こし(靖難の変)、遂に南京の建文帝を打倒し、明の帝位を簒奪した。 朱棣が明の皇帝に即位すると、元来の本拠地であり、宿敵・北元の近くでもあった北平に目を付け、北元の南下に対する軍事政策の拠点として再び重視され[疑問点 – ノート]るようになった。そして、都の3分の2[疑問点 – ノート]~1程度の規模で[疑問点 – ノート]、現在の名と同じ「北京」が建設され、[疑問点 – ノート]完成すると遷都し、南京に代わって明帝国の首都となった。[疑問点 – ノート] 元帝国時代の北京は各国の商人で賑う国際都市であった。しかし、明帝国は、貿易を朝貢貿易のみに限定し、「海禁政策」の体制をしき、朝貢貿易いがいの密業者を徹底的に弾圧したため、元帝国の時代のような「国際的な繁栄」を見せることはなくなった。
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