IG・ファルベンインドゥストリー 解体

IG・ファルベンインドゥストリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 01:24 UTC 版)

解体

1947年、連合国軍によってIGファルベンの役職員23人が戦争犯罪の嫌疑で起訴され、翌1948年、クラウホをはじめとする13人に有罪判決が下された(IG・ファルベン裁判[20]。最高刑は懲役8年であり、死刑となったものは存在せず、全員が刑期満了前に釈放された[20]。これはドイツ産業界を攻撃するのは国益を損なうという合衆国の判断によるものであった[20]

連合軍軍政期にあって、IGファルベン国内工場の処遇は英米仏ソ各管轄に委ねられた。この点、アメリカのモーゲンソー財務長官らはIGファルベンの完全な解体を主張したが、ドイツの産業を復興させようとする国務省と国防省によって反対された[9]。結果、IGファルベン自体は解体されるものの、その解体はドイツ人の専門委員会によって、経済的な規範によって行われるという方針がとられることとなった[9]。具体的にはIGファルベン裁判の判決が出された直後1948年8月5日、英米占領地区の合同管理理事会のもとに、IGファルベン合同管理課 (Bipartie I.G. Farben Control Office, BIFCO) と合同占領地区IGファルベン分散パネル (Bizonal I.G. Farben Dispersal Panel, FARDIP) が設置された。管理課は連合国管理機構の一部であって、軍政府職員で構成された。パネルは管理課の監督下におかれ、ドイツ人専門家で構成されようとしていた。人選を議題として8月下旬から9月上旬にかけて数回のドイツ側会合が催された。出席者にバイエルのウルリヒ・ハーバーラント (Ulrich Haberland) がいた。彼はイギリス占領地区に存在する全主要工場の管財人となる人物であった[21]。管理課に送られたパネラー候補者リストには、ドイツ銀行出身の元IGファルベン監査役ヘルマン・ヨーゼフ・アプス (Hermann Josef Abs)、前AEG取締役会長ヘルマン・ビューヒャー (Hermann Bücher)、元弁護士前ヘッセン州経済相ルドルフ・ミュラー (Rudolf Müller) などがいた[22]。管理課が専任の務まらないアプスとミュラーを忌避、12月ビューヒャーを筆頭にパネラーを決定した[23]

1951年、IGファルベンは正式に解散した。しかし、これはIGファルベン自身が1940年に決めた再組織プランに基いた内容だった[24]ソ連占領地区(のちの東ドイツ)の工場は人民公社に改組されるか戦時賠償として接収された。フランスも接収などの厳しい措置をとった。アメリカ・イギリス・フランス各占領地区では翌1952年にはバイエル、ヘキスト、BASF, アグフアなどの12社に分割されたが、やがてバイエル、ヘキスト、BASFの三社によって吸収されていった[20]。IGファルベン本体の業務自体はIGファルベン清算会社に引き継がれた[20]。批判的株主と呼ばれるグループは戦時中の補償は後継会社であるバイエル、ヘキスト、BASFの三社が行うべきと主張しているが、三社はIGファルベンの後継会社ではなく新企業であるため補償義務はないと主張しており、補償を求める訴えには応じていない[25]。争点の行方はともかく、三社は要所で連携し、朝鮮特需で利益をあげ、その後はドイツ銀行の他にコメルツ銀行ドレスナー銀行をメインバンクとし、合理化と配当を実現し、アメリカ独占資本の計算で戦前に勝る成長を遂げたのである[24]


  1. ^ a b c d 上林貞治郎「イーゲー・ロイナ工場史 -イーゲー・トラスト成立史をふくめて-」『経営史学』第2巻第2号、経営史学会、1967年、1-29頁、doi:10.5029/bhsj.2.2_1 
  2. ^ 八木、278頁
  3. ^ a b c 田村光彰 1997, pp. 55.
  4. ^ 清瀬一郎『特許法原理』中央書店、1922年「(1916年連合国が開いた)専門委員等ハ曽テ独逸ノ化学者カ仏国ニ於テ化学品ニ対スル特許ノ制限ナキニ乗シ、染料ニ使用スヘキ化学品ニ特許ヲ獲、同国産業ヲ苦メタル経験ニ鑑ミ、各国特許法ニ此制限ヲ置クヘキコトヲ薦メタリ」
  5. ^ a b c d e f 田村光彰 1997, pp. 56.
  6. ^ ロン・チャーナウ『ウォーバーグ ユダヤ財閥の興亡(上)』日本経済新聞社、1998年、p.414.
  7. ^ 大東英祐「企業間交渉の展開過程 I・G・ファルベンとスタンダード・オイルの十年間」経営史学 8(2), 26-58, 1973
  8. ^ 八木、275頁
  9. ^ a b c 田村光彰 1997, pp. 57.
  10. ^ 八木、275、277頁および284頁の関連年表(八木作成、年表は以下特に出典を示さない文でも活用)
  11. ^ Antony S. Sutton, "Wall Street and the Rise of Hitler", CLAIRVIEW BOOKS, 2010, p.43.
  12. ^ 八木、18-19頁
  13. ^ a b 八木、77頁
  14. ^ 八木、34-35頁
  15. ^ 八木、78-80頁
  16. ^ 八木、104-107頁
  17. ^ 八木、23頁
  18. ^ 八木、110-113頁
  19. ^ 八木、115-117頁
  20. ^ a b c d e 田村光彰 1997, pp. 58.
  21. ^ Klaus Trouet, S.36-41.
  22. ^ Klaus Trouet, S.39-40.
  23. ^ Klaus Trouet, S.45.
  24. ^ a b 前川恭一「戦後ドイツの工業独占企業の財務政策」同志社商学 14(6), 89-105, 中折2枚, 1963-04
  25. ^ 田村光彰 1997, pp. 58–59.
  26. ^ 八木、144-150頁
  27. ^ Business Week, No.2541, McGraw-Hill, 1978, saying "1962, when Alfred Schaefer, chairman of the Union Bank of Switzerland and head of Interhandel, hired Prince Radziwill to make contact with Radziwill's brother- in-law, Attorney General Robert F. Kennedy."
  28. ^ 八木、276頁
  29. ^ 八木、185頁と年表
  30. ^ 八木、185-186頁
  31. ^ a b 八木、年表
  32. ^ The Economist, vol.255, 1975, Economist Newspaper Limited, "Concentra - offering a participation In the German economy Concentra is a Mutual Fund (Unit Trust) investing in leading German shares, e. g. RWE, Siemens, Daimler Benz, BASF, Hoechst, Bayer, Deutsche Bank, Dresdner Bank"
  33. ^ The Washington Post, "Joseph Borkin, Antitrust Lawyer, Author Dies", July 6, 1979
  34. ^ 八木、190-192頁





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