10月14日の戦車戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/12 02:02 UTC 版)
結末
正午までにはイスラエル軍はほぼ全正面でエジプト軍の攻勢を押し返し、戦闘は決着が付いていた。エジプト軍の攻撃失敗である。この戦闘でエジプト軍は264両の戦車を喪失した一方で、イスラエル軍の損害は戦車20両程度にすぎなかった。この日の戦闘までエジプト軍の公表する戦果は比較的正確なものであったが、これ以降事実を歪曲して誇大な戦果を公表するようになった[3]。バーレブはゴルダ・メイヤー首相に14日の戦闘を次のように要約して伝えている。
今日は良き日です。我々はもとの我々に戻り、エジプト軍ももとのエジプト軍に戻りました。 — ハイム・バーレブ、Chaim Herzog, "The War of Atonement" ,P206の翻訳
エジプト軍は9M14 マリュートカを携行した対戦車チームを車両に乗せ、戦車部隊に同行させようとしたが、周到に準備された陣地でイスラエル軍を迎え撃つのと、戦況が流動的な戦場でミサイルを撃つのはまったく別の行為であり、うまく行かなかった[30]。イスラエル軍はM113装甲兵員輸送車に載せた歩兵や迫撃砲で反撃し、これらの対戦車チームに大損害を与えた。一方、この戦闘でイスラエル軍はSS.11対戦車ミサイル、「ニッケル・グラス作戦」によってアメリカから供与されたばかりのBGM-71 TOW対戦車ミサイルやM72 LAW対戦車ロケットを使用し、戦車部隊とともにエジプト軍を迎撃した。[注釈 5]
イスラエル軍はこの戦闘の勝利により、ゴラン高原方面に続きシナイ方面でも優位を獲得した。スエズ運河東岸のエジプト軍戦車を減らすことができたイスラエル軍は、翌15日からスエズ運河逆渡河作戦「アビレイ・レブ作戦」を開始する。「中国農場」での激戦をくぐり抜け、16日にはイスラエル軍の空挺部隊が「アフリカ」(イスラエル軍はスエズ運河西岸のことをこう表現した)へ渡ったのである。
- ^ Adan , "On the Banks of the Suez" , P241.
- ^ a b c 四上「中東戦争全史」
- ^ a b c Herzog, "The War of Atonement" P206.
- ^ a b Herzog, "The War of Atonement" ,P205.
- ^ 高井「第四次中東戦争」P136 - 137
- ^ Dunstan,lyles "The Yom Kippur War(2)" ,P61.
- ^ a b c Adan , "On the Banks of the Suez" , P236 - 237.
- ^ Adan, "On the Banks of the Suez" , P215.
- ^ ギルボア、ラピット「イスラエル情報戦史」P101
- ^ エシェル、「イスラエル地上軍」P214
- ^ a b c d Gawrych. “The 1973 Arab-Israeli War:The Albatross of Decsive Victory”. 2015年11月18日閲覧。
- ^ a b c d エシェル「イスラエル地上軍」P223
- ^ a b 高井「第四次中東戦争」P139
- ^ a b c Gawrych,The 1973 Arab-Israeli War:The Albatross of Decsive Victory,P63.
- ^ a b エシェル「イスラエル地上軍」P222
- ^ エシェル「イスラエル地上軍」P224
- ^ 高井「第四次中東戦争」P141
- ^ エシェル「イスラエル地上軍」P217
- ^ a b Dunstan,Lyles "The Yom Kippur War(2)" P66.
- ^ Adan , "On the Banks of the Suez" , P239 - 240.
- ^ エシェル「イスラエル地上軍」P218
- ^ a b Adan , "On the Banks of the Suez" , P238
- ^ エシェル「イスラエル地上軍」P219 - 220
- ^ Adan , "On the Banks of the Suez" , P239
- ^ ラビノヴィッチ、「ヨムキプール戦争全史」
- ^ エシェル「イスラエル地上軍」P238 - 239
- ^ 上田「現代戦車戦史」P51
- ^ エシェル「イスラエル地上軍」P226
- ^ 高井「第四次中東戦争」P40
- ^ a b Dunstan,Lyles "The Yom Kippur War(2)" P67.
- ^ ゴネンに対する配慮から、ゴネンは名目上バーレブと同様南部方面軍司令官としての地位であったが、事実上ゴネンはバーレブの指揮下にあって、バーレブの命令が優先するとされた[8]。
- ^ 名前を「イツハク・サソン」(יצחק ששון,Yizhak Sasson) とする資料も存在するが、ヘブライ語版ウィキペディアによれば「サソン・イツハキ」(ששון יצחקי,Sasson Yzhaki)が正しい表記のようである
- ^ a b 「砲兵道」とはスエズ運河から東10km、「平行道」とは東30kmにある道路。詳しくは「バーレブ・ライン#道路」参照
- ^ イスラエル軍の装備していたセンチュリオン(ショット)やM48、M60(マガフ)戦車は車高が高い分、主砲の俯角が10度まで取れるので、逆に車高が低い分主砲の俯角が3~4度までしか取れないエジプト軍のT-54/55、T-62戦車に対し稜線射撃で優位に立つことができた[27]。
- ^ アメリカは戦争終盤まで、イスラエルに対してTOWを供与した事実を否定した[30]。
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