鈴木房重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/23 15:15 UTC 版)
参考文献
- 鎌田忠良『日章旗とマラソン』講談社文庫、1988年
- 日本陸上競技連盟七十年史編集委員会 『日本陸上競技連盟七十年史』 財団法人日本陸上競技連盟、1995年、1130頁。
- 『箱根駅伝 襷の記憶』 ベースボールマガジン社、2007年、178頁。ISBN 9784583615073
- 曾根幹子「「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」『広島市公文書館紀要』第32号、2020年、1-13頁。
- 表1 日本人戦没オリンピアン(2020年1月末日現在)(pp.9-10)
外部リンク
- 鈴木房重 - Olympedia(英語)
- 選手詳細情報 鈴木房重[リンク切れ]箱根駅伝公式Webサイト
- ^ 日大、史上初4連覇と、伝説の「箱根の職人・宮ノ下の勇者」日本大学 2016箱根駅伝ガイドブック
- ^ a b 鈴木房重 Profile: Sports-Reference.com[リンク切れ]Archived 2020年4月17日, at the Wayback Machine.
- ^ a b c 曾根 2020, 9-10頁.
- ^ 12th IAAF World Championships In Athletics - IAAF Statistics Handbook Berlin 2009 IAAF. 2010年7月20日閲覧。
- ^ 『日章旗とマラソン』p.24 - 26。このマラソンが3月21日に開催されたことは当時の新聞の縮刷版(読売新聞)でも確認できる。
- ^ 出口庸介編「マラソン・データバンク」(マラソン道路最高記録の変遷)『陸上競技マガジン』1990年3月号、ベースボール・マガジン社、p.171。後述の池中康雄の前の記録は、楠好蔵(坂出青年団)が1933年11月3日の日本選手権で樹立した2時間31分10秒となっている。
- ^ 武田薫(2008-12-09). (2)日大…幻の五輪代表と初の4連覇(1935~38年、16~19回大会) YOMIURIONLINE. 2010年7月20日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 武田薫『マラソンと日本人』朝日新聞出版、2014年、pp.74 - 75
- ^ 『日本陸上競技連盟七十年史』p.686.
- ^ 『日章旗とマラソン』p.251 - 254。朝鮮半島出身の孫と南は「選手団の役員は二人のうちどちらかを落とすつもりでいる」と後からベルリンに向かっていた走り幅跳び代表の朝隈善郎から電報で伝えられ、実力で残るためにハードな練習をコーチに提案した。鈴木が発熱したのはその初日の夜だった。
- ^ 『日章旗とマラソン』p.263 - 264
- ^ 『日章旗とマラソン』p.310
- ^ 『日章旗とマラソン』では、出場したものの13周目から遅れ、「トップから一周後れでゴールインした」とある(p.293)。レースを報じた朝日新聞記事(1936年8月3日付)には「鈴木は次第に遅れ」との記述があるが、ゴールの有無や結果については記載されていない。
- ^ 大日本体育協会『第11回オリンピック大会報告書』p.51。この報告書では陸上競技の結果については入賞(6位)以上しか記載されておらず、ここでも鈴木のレース結果は不明である。
- ^ 『日本陸上競技連盟七十年史』p.59.
- ^ 『日本陸上競技連盟七十年史』p.176.
[前の解説]
固有名詞の分類
- 鈴木房重のページへのリンク