西欧の服飾 (16世紀)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:28 UTC 版)
女性の服装
16世紀にはいると、極端に高かったウエストラインは自然な位置に戻る。スカートは床丈になり、丸みを帯びて広く襞をたっぷりと取るようになった。男性同様に肌着の襟は高く詰まって、刺繍を施すようになる。
衿の詰まったシュミーズの上に葦で芯を入れたキャンバス地か蝶番式の鉄のコルセットを身に着けた。その上にジュップ(ペチコート)を重ね、ネックラインの低いガウンを上に重ねた。
16世紀後半にはフランス式ガウンというドレスが流行する。下準備として丸襟のシュミーズを身に着け、ショースを履き、コール・ピケと呼ばれる鯨骨を入れた刺子仕立てのコルセットを締めあげた。細い腰がもてはやされ、当時の貴婦人であるカトリーヌ・ド・メディシスは40センチ、メアリ・スチュアートは37センチという細腰だった。さらにオース・キュという浮き輪に似たパッドを前下がりに身に着ける(イギリスではファージンゲールも加える)。そしてジュップ(ペチコート)を1枚ないし2枚、ブラウスを身に付け袖のないネックラインの低いガウンを着た。ガウンには別に袖を付けるのだが、袖付けにはエポーレットを被せてフレーズを首に巻いた。
庶民
中世以来のコットにアンダースカートを合わせるものや、ジャケットの原型にあたるジャクという腰丈の短い上着にスカートとエプロンを合わせるもの、ボディスのようなものを身に着けた農村の女性の姿が版画などに残る。男性に比べて服装は比較的近代的に見えるが、貴婦人たちの大きく広がって床すれすれのスカートと違って丈は足首より上と短い。彼女たちは頭をすっぽりと覆う頭巾やスカーフで髪を覆っている。
市民の女性は詰め襟で衿の部分に細かい刺繍をしたシュミーズにガウンを重ねた。16世紀の初期はほっそりとした長袖のワンピース式の衣装にエプロンと頭巾という服装がよく見られる。中にはボディスを身に着けている例や、コラーという肩を覆って胸まで垂れる大きな襟飾りをつけた姿も見られる。
上流市民
上流市民の女性の衣服は貴婦人のものにほぼ準じる。スカートが膨らんだローブを着て、夏場はマルロット、ベルヌというやや簡素な物を着た(ローブと大きな違いはない)。タブリエというエプロンのようなものが流行し、スカートの前にくくりつけて下げた。これは汚れよけの前掛けではあったが、刺繍を施したりダマスク織で仕立てられるなどしており、装飾的な意味合いが強かった。
16世紀半ばスペインからはフレーズと言う襟、コルセットとヴェルチュガダンというスカートを広げる枠が持ち込まれた。ローブは袖が別仕立てで、共布だけでなくローブと色違いであったり素材違いの袖を後から縫いつけて縫い目をエポーレットで覆った。16世紀末には腰の上下の部分がボディスとスカートとして独立し、胸元が開いていった。フランスの外交官ド・メッスはエリザベス1世がへそのあたりまで開いたドレスを持っていると書き残している。胸元が開いたことで見えるようになったコルセットを隠すためにピエース・デストマという装飾を施した三角形の胸当てをローブの内側からホックで取り付けるようになった。一番上のスカートはボディスの裾の垂れ部分に沿ってホックなどで取り付けた。
コルセットははじめ王侯の婦人が鉄製の鎧のようなものを持ちこんだ。これは蝶番で着用する逆三角形に近い形をしており、透かし彫りが施されていた。より広く使われたのはキャンバスのような厚い麻布を何枚か重ねて裏からステッチを施し、葦の茎を通して芯にしたもので、キルティングしたものという意味でコール・ピケと呼ばれた。鯨骨を火で焙りながら曲げて型にしたものを入れるのはより高級なもので、紐で締めあげて着用した。
ベルチュガダンはスカートを釣鐘型に広げるための特殊なペチコートといった様子のもので、籐製の輪を小さいものから大きいものの順に丈夫な木綿や毛織の布に縫い込んで着用した。フランスではオース・キュという浮き輪のような形のパッド、イギリスではフィール・ファージンゲールという枝を使ったドラム缶型のベルチュガダンを腰に巻いて、腰から床と平行にスカートが横に広がるスタイルが流行した。ペチコートの下にはカルソンというズボンのようなものを履いた。会計録や財産名簿には散見されるもののあまり表だって名前が出ることは少ないが、カトリーヌ・メディシスは黒いタフタで仕立てたカルソンを所有していたと記録されている。イタリア製のリネンでできたカルソンが当時の貴婦人の遺品として残されているが、これはドロワーズの原型とされている。
1548年にイタリアの修道士が著した『女性の美に関する対話』という本の中で、ルネッサンス的な理想の美女について詳しい著述がある。第一に、色白であること。第二に豊かに波打つ金髪であることが挙げられている。ここでは「黄金の色、蜜の色、太陽の色」が良いといわれているので、明るいはっきりした色のブロンドがもてはやされたようだ。額は広く高く、眉は緩やかに上に湾曲して眉尻が落ちた形、丸くて大きい栗色の目、細い鼻梁で鼻の頭はやや上向きがよく、小さな口、長くほっそりとした首、やや豊かなあごが美人の証だった。
化粧品として鉛白のお白粉があったが、風刺詩には「ヴェニスの白亜」などで肌を塗る様子がうたわれているため、経済状況や部位によって使い分けていたのかもしれない。頬紅が好まれた様子はエリザベス朝の小説『不平家』に「静脈を描き、目を生き生きと見せ、髪を染め、肌をすべすべにし、頬を赤く染め、胸をふくらませ、歯を真っ白にする達人」が登場することからもわかる。
エリザベス朝では、髪はフィレンツォーラの黄金の色、蜜の色、太陽の色というより「燃える髪」と表現されるような赤っぽい色が人気があった。これは、エリザベス1世がかなり赤っぽい色の金髪で、その髪を誇りにしていた影響もある。スコットランドの外交官は、エリザベス女王が毎日豪華な衣装を着替えては、スコットランドのメアリー女王と自分のどちらが美しいかと問い詰め、自分の髪を賛美させたと自国に書き送っている。
最初は、ボネ・シャプロンやボネ・ド・ヴーヴという固いカチューシャで髪を抑える頭巾が被られた。これは中世のものよりは小型になっており、やがて髪が現れた。髪を現すのが普通になると、男性と同様の羽毛や宝石を飾ったビレッタやトーク帽(小さな筒型の帽子)を好んで被るようになった。こうした被り物も、イタリア風やフランス風やドイツ風と違いがあり、ラブレーはフランス女性は季節ごとに被り物を使い分けたと書いている。
靴は男性のものとほとんど変わらず、雌牛の唇型からオックスフォード型に緩やかに変化していった。
上流階級
フランソワ1世は女性に豪華な布地をプレゼントする趣味があり、姪のマルグリットに金糸を織りこんだ緞子を贈り銀の花を飾ったローブを仕立てさせた。そのため11歳の姫君は動くこともままならなかったというが、彼女のような高貴な女性は豪華な布地にさらに貴金属や宝石(多くは真珠)を飾るのが当然とされていた。オーストリア大公妃カタリーナは28着の真珠を飾ったローブを持っていたことが財産目録からわかる。エリザベス女王は真珠と銀糸で「女王らしく」装飾した黒ビロードの喪服を所有していた。
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