祝勝歌
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ピンダロスとバッキュリデース
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(ローマ時代の模写)
古代ギリシアの祝勝歌が最盛期を迎えたのは、二人の詩人、ピンダロスとバッキュリデースの時代であった。
バッキュリデースはキオース島(EN)で紀元前520年頃に生まれたとされる。シモーニデースの甥であった。古代ギリシアの9歌唱詩人の一人で、彼の作品はヘレニズム時代の紀元5世紀頃まではよく知られていたが、ほとんどの作品が断片の形でしか伝わっていなかった。しかし、1896年にエジプトのヘリオポリス・マグナ(現在の El-Ashmunein )でほぼ完全な形の「祝勝歌集」と『ディテュランボス』の前半部分が発見されたことから、その作風を確認することが可能となった[4]。
バッキュリデースはシラキュサの僭主ヒエロンの元に、シモーニデースやピンダロス同様に、客として滞在していたと考えられる。ヒエロンの宮廷において、ピンダロスと彼は敵対関係にあったとも伝えられているが、後世の伝記作者の捏造である。
バッキュリデースの作風は、その『ディテュランボス(ディオニューソス讃歌)』で示されているように、ディオニューソス的な騒擾と地上的な賑やかさにあるが、これはピンダロスが『ピューティア第一祝勝歌』で示しているアポローン的な天的静謐さとは対極にあるとも言える[5]。ピンダロスの祝勝歌は、勝利者に対する素朴な称賛の言葉だけではなく、人間とは何かという「問いかけ」が含まれている。バッキュリデースの祝勝歌は遙かに分かりやすく、依頼者の期待に応え、端的に勝利を称賛するうたとなっている。
「問いかける」悲劇詩人のエウリーピデースが、アテーナイの人々にその意図を汲み取られないまま、危険人物視され故国を去ったのと似て、ピンダロスもまた、そのうたに組み込んだ思索の深さより誤解を受けたとも言える。紀元前468年にヒエロンはオリュンピア競技祭典で戦車競走に優勝したが、ヒエロンはバッキュリデースに祝勝歌の依頼を行い、ピンダロスは無視された。ピンダロスの「人間とは何か」という問いは、現代的な意味を持っていると言える[6]。
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