焦竑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 14:14 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯
幼少より刻苦勉励し諸生(科挙を受験する候補生)の時から評判が高く、督学御史の耿定向に学び、疑義を羅汝芳に質すようにしていた。嘉靖43年(1564年)に郷試に合格。万暦17年(1589年)に北京で行われた会試・殿試で第一等の成績で状元となり、翰林院修撰に任命され国朝典章を司る。さらに皇長子朱常洛の講官にまでなるが、万暦25年(1597年)に曹大咸・楊廷蘭により弾劾され、福寧州同知に左遷された。翌年に福寧州、また次の年には太僕寺丞に異動させられ、辞官してその後は出仕しなかった。80歳で没する。天啓帝は先代に対する講読の恩を記念するために焦竑を復官させ、福王朱常洵の時に文端と追諡した。
焦竑の学問は羅汝芳に教えられたことを基本とし、経史から稗史雑説にいたるまでの幅広いものだった。「蔵書両楼」と言われるほどの蔵書家であり、『焦氏蔵書目』2巻がある。
著作
- 『国朝献徴録』
- 『国史経籍志』
- 『澹園集』
- 『焦氏筆乗』
- 『老子翼』
- 『荘子翼』
- 『楞厳経精解評林』
- 『楞伽経精解評林』
- 『圓覚経精解評林』
- 『法華経精解評林』
参考文献
- 『明史』巻288
- 1 焦竑とは
- 2 焦竑の概要
固有名詞の分類
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