水谷八重子 (2代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 07:27 UTC 版)
人物・エピソード
- 五代目坂東玉三郎は、父十四代目守田勘彌の養子であるため、義理の弟にあたる。水谷は、私が男として生まれていたら玉三郎を襲名させられていたと語っている。
- 1961年、後に世界中で大ヒットした「上を向いて歩こう」の録音の際、作詞をした永六輔は坂本九の「ウヘホムフイテ、アールコホゥホゥホゥ」という独特の節回しの歌いだしを聴いて、耳を疑い「おまえ、どこにホゥホゥホゥと書いてあるんだ」と激怒し、これではヒットしないと考えた。舞台の袖にいた水谷は「こういうのヒットするのよね」と言っていた。水谷の予感は当たり、全米のヒットチャートでも1位に輝くなどしたが、後に永は坂本が幼児期から清元や小唄を仕込まれていたことを知り、「あの歌い方は邦楽だった。彼の中に日本の伝統が生きていた」と自分自身を納得させた[4][5]。
- 中央競馬の馬主でもある。高松三太調教師、高松邦男調教師とは古くから懇意にしており、持ち馬を高松厩舎に預けていた。女優という職業柄、馬名には「ファニーガール」、「ラマンチャノオトコ」、「ミスサイゴン」など、ミュージカルの題名を多く利用している
- ドラマ『冬のソナタ』の主題歌「最初から今まで」、同挿入歌「My Memory」などの歌唱などで知られる歌手Ryuの大ファンで公私ともに親しい。彼の後援会へも入会し、一般ファン同様にファンミーティングに参加している。
- 越路吹雪をオネエと慕い、親しい関係にあった。越路の夫である内藤法美が内藤音楽事務所を設立し、初めて越路以外の歌手のショーを手掛けることになった際に白羽の矢が立ったのが水谷であり、越路は自身のショーを差し置き、水谷のショーのサポートのために岩谷時子を向かわせている。越路、内藤が亡くなって久しい現在も内藤音楽事務所とは仕事を共にしているほか、自身のショーでは越路から貰ったイヤリングをお守り代わりに身につけているほか、越路の持ち歌のいくつかをレパートリーに加えている。
- 母である初代水谷八重子とは、「八重子反抗期」として母の生前芸への考え方では対立することが少なくなかったというが、没後にその考えや偉大さがわかるようになったと語っている。なお、親子仲自体は極めて良く、初代八重子はメディア出演の際には必ず愛娘の話題をしていた。現在も水谷は折に触れて母の話を語っている。
- 同じ新派の波乃久里子とは、ライバル格と見られることが多く、かつては不仲説が取り沙汰されたこともあったが、実際は波乃は「良重おねえちゃま」と慕い、水谷は笑いながら「(仲の悪い)姉妹同様の仲にある。何でも知っています」と語っている。水谷・波乃ともに新派所属の役者について、愛情あふれるエッセイを書いており、そこから現在の新派のアットホームなムードやチームワークの良さを窺うことが出来る。沢田雅美ともプライベートでは実の姉妹のように仲が良く「良重姉ちゃん」と呼び慕われている。
- 愛猫家である。かつては犬派であったが、現在は7匹の猫を飼っており、その経験を生かしたエッセイも多く執筆している。
- ^ 「テーマ大特集 身長物語 背の高さのお話 ノッポさんのユカイな考察 スタアのノッポさん」『スタア』、平凡出版、1975年7月、176–179頁。
- ^ “組織概要”. 日本俳優連合. 2020年12月20日閲覧。
- ^ a b 「Projectionist's news」『映写』第155号、全日本映写技術者連盟、18頁。
- ^ “「上を向いて歩こう」の録音の際…”. 毎日新聞 (2016年7月12日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “SHOWA プレイバック - 坂本九『上を向いて歩こう』”. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “もったいなくない マータイさん旭日大綬章 春の叙勲”. 朝日新聞デジタル (2009年4月29日). 2023年4月8日閲覧。
- ^ “水谷八重子・波乃久里子らが勢ぞろい、初春新派公演「東京物語」本チラシが到着”. ステージナタリー. ナターシャ (2023年10月11日). 2023年10月11日閲覧。
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