柴田侑宏
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劇中音楽について
初演出の頃から、同時期の入団だった作曲家・寺田瀧雄と組むことが多く、ほぼ40年にわたり少なくとも50本以上の作品で協働、柴田作詞・寺田作曲による多くの宝塚メロディーで舞台を盛り上げたが、寺田は交通事故で急逝。寺田の遺作となった『凱旋門』が最後のコンビ作となった。寺田の死後の柴田の新作では、日本ものでは吉田優子(寺田の弟子)、ヨーロッパ作品では高橋城、斉藤恒芳などが作曲にあたっていた。
関連
- 柴田侑宏脚本選 ~「あかねさす紫の花」ほか(1988年/OBN-10041B)[9]
- 脚本
- 『あかねさす紫の花』 ('76)
- 『琥珀色の雨にぬれて』('84)
- 『小さな花がひらいた』('71)('81)
- 『アルジェの男』 ('74)('83)
- 『紫子(ゆかりこ)』 ('87)
- 主題歌集
- 紫に匂う花/ミュージカル・ロマン『あかねさす紫の花』
- 琥珀色の雨にぬれて/ミュージカル・ロマン『琥珀色の雨にぬれて』
- 小さな花がひらいた/ミュージカル・ロマン『小さな花がひらいた』
- ジュリアン・クレール/ミュージカル・ロマン『アルジェの男』
- 花風吹/ミュージカル・ロマン『紫子』
- その他
主演者・関係者からのメッセージなどを掲載。
- 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 2 (1990年)
- 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 星影の人ほか 3(1992年)[10]
- 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 3 (1992年)
- 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 4 (1994年)
- 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 5 (2006年)
- 人間が息づく舞台を~演出家・柴田侑宏が描いた世界(2020年/OBN-10498B)[11]
注釈
- ^ 歌劇団が1957年〜67年に若手劇団員・演出家の養成に活用していた中劇場。72年に閉場となり、若手養成の場としての役割は、後に宝塚バウホール(1978年新設開場)に継承される。
- ^ 宝塚大劇場・東京宝塚劇場での公演。
- ^ 最初の洋物は72年のオリジナル作品『さらばマドレーヌ』
- ^ 演出家表記は、同年の『バレンシアの熱い花』全国ツアー版が最後となった。次の再演作にあたる翌08年の『赤と黒』以降は全作「作」もしくは「脚本」のみの表記となった。
- ^ 歌劇団の発展に寄与したスター、スタッフ計100人の1人として選出された
- ^ 長年名古屋公演会場だった中日劇場が2018年閉場したため、御園座を公演会場とし、新たな名古屋公演の第一弾演目として上演されたもの。因みに18年の中日劇場での最後の歌劇団公演作も柴田脚本による『うたかたの恋』だった。
- ^ 潤色・演出担当:小柳菜穂子。
出典
- ^ a b “神戸新聞NEXT|総合|宝塚歌劇団演出家 柴田侑宏さん死去” (Japanese). www.kobe-np.co.jp. 2019年7月20日閲覧。
- ^ a b “「仮面のロマネスク」「激情」宝塚歌劇の名演出家・柴田侑宏さん死去 87歳”. スポーツ報知 (2019年7月19日). 2019年7月20日閲覧。
- ^ a b c d “平和への思い 作品にひそかに込める 宝塚歌劇団脚本・演出家 柴田侑宏さん(83) ”. 産経新聞 (2015年8月18日). 2015年8月19日閲覧。
- ^ 柴田没後の追悼記事に植田紳爾が寄せた「追悼・演出家誕生の瞬間」より/「歌劇」2019年9月号p98(宝塚クリエイティブアーツ・刊)
- ^ 「歌劇」2010年9月号 演出家随想「百周年後半の変遷」より
- ^ 村上久美子 (2014年1月11日). “宝塚が八千草薫ら殿堂100人を発表”. 日刊スポーツ 2022年6月23日閲覧。
- ^ 『宝塚歌劇 華麗なる100年』朝日新聞出版、2014年3月30日、134頁。ISBN 978-4-02-331289-0。
- ^ 「歌劇」1996年11月号 120頁
- ^ 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 : あかねさす紫の花ほか 国会図書館オンライン
- ^ 宝塚歌劇柴田侑宏脚本選 : 星影の人ほか 3 国会図書館オンライン
- ^ 人間が息づく舞台を~演出家・柴田侑宏が描いた世界 宝塚アンページ
固有名詞の分類
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