李綱 (天順進士)
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生涯
幼くして父に従って北京に入り、車の下に落ちて、車が体を轢いて通り過ぎたが、李綱には傷ひとつなかったので、人はみなこれを不思議に思った。1457年(天順元年)、李綱は進士に及第し、御史に任じられた。巡按南直隷・巡按浙江を歴任した。浙江の汚職官吏400人あまりを弾劾したことから、当時の人々に「鉄御史」と称された。陜西延綏現地の兵の編成にあたるよう命じられた。1467年(成化3年)、北京に召還されると、太僕寺少卿に転じた[1]。巡按北直隷をつとめ、馬政を監督し、役人からの贈答品を全て退けた。冀州を巡按したとき、盗人に遭遇した。盗人は「太僕の李公ではないか。どうして金を得ることができようか」と言って、箱を開かないまま逃走した。1477年(成化13年)、李綱は右僉都御史に転じた。1478年(成化14年)、左僉都御史に進み、運河の水運を監督し、平江伯陳鋭とともにその事務にあたった。1479年(成化15年)6月戊子、死去した[2]。
参考文献
- 『明史』巻159 列伝第47
- 1 李綱 (天順進士)とは
- 2 李綱 (天順進士)の概要
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