日朝関係史 古代

日朝関係史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 05:09 UTC 版)

古代

旧石器時代から弥生時代

紀元前1世紀頃の東夷諸国と楽浪郡の位置

初期の交流

旧石器時代から縄文時代にかけては、黒曜石が丸木舟によって運ばれて長距離交易の品物になった。現在の佐賀県にあたる地域から産出した黒曜石が、朝鮮半島の釜山にある東三洞貝塚からも出土している[1]新石器時代の朝鮮半島の土器は、対馬壱岐から発見されている。7000年前の縄文時代前期には、九州北部と朝鮮半島南部には漁撈民が移動生活をしながら海峡を往来していた。朝鮮半島の南部では縄文土器が発見されており、日本列島では対馬・壱岐、九州北部から朝鮮半島由来の櫛目文土器があり、釣針や中国製耳飾りも運ばれた。こうした交流は、漁の途中で一時的に海岸に立ち寄りながら行われていた。石器時代ののちには、朝鮮半島の金属器を求めて海を渡るようになる[2]

農作物の渡来

7000年前には中国の長江流域で水田稲作が始まっており、日本に渡来した経路については、朝鮮半島のルート、大陸からの直接ルート、南西諸島のルートに大きく説が分かれる[3]。稲作の渡来経路の研究として、遺伝子の研究、各種遺跡からの出土品からの農具や儀礼の研究、水耕田跡の調査などが行われている。日本および朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種と熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられる[4]。青森県の高樋III遺跡や滋賀県の下之郷遺跡をはじめとして、弥生時代の遺跡からは温帯性と熱帯性の双方が発見された。稲の在来品種のDNAを核SSR(シンプル・シーケンス・リピート)法で分析した結果では、大陸からの渡来は朝鮮半島と日本列島の双方に認められた[5]。日本で稲作が始まった時期は紀元前10世紀後半、場所は北九州の玄界灘沿岸からで、唐津の菜畑遺跡や福岡の板付遺跡が最古のものとされている。大規模な渡来は大きく3回にわたり、紀元前7世紀-8世紀、紀元前4世紀-5世紀、紀元前2世紀-3世紀とされる。朝鮮半島から壱岐を経由した種や、大陸から北部九州に直接渡来した種があったことが判明している[3][6]

国の成立

弥生時代の後半から、朝鮮半島との交流が活発になる。北部九州と朝鮮半島南部では海人族が沿岸や島々で活動しており、権力者は海民を通して青銅器や鉄器を入手した。弥生時代には、丸木舟に代わって準構造船の船団で航海が可能になり、運搬する物資も増えていった[1]。海村のネットワークにより海路が緊密になり、国々が成立した。大陸からの進出もあり、前漢の武帝衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を建設して、漢の制度にもとづく地域となった。楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されて、中国各地からの物産も集まった。高句麗に征服されるまでは、楽浪郡から中国製の器物が朝鮮半島や倭国に流通して技術も伝わっていった。日本と朝鮮半島をつなぐルートは、洛東江の狗邪国と、北部九州の奴国伊都国が結びついた。狗邪国から壱岐、対馬を経由して北部九州に着くルートが『魏志倭人伝』に書かれている。邪馬台国の時代には、一大率という役職が伊都国に派遣されていた[7][8]

倭国と朝鮮三国時代

三国時代の地図、5世紀終わり頃。半島西南部の解釈には諸説がある。

日本列島が古墳時代のころの朝鮮半島は、北には高句麗、東には新羅、西には百済の3国が並び、三国時代とも呼ばれている[† 1]。三国のほかにも、南部に小国の連合体である伽耶、西南部に栄山江の流域文化があった。日本列島はヤマト王権による統一政権と大宝律令の完成までは、倭国もしくは大倭国と自称していた。日本列島と朝鮮半島のいずれも統一政権ができるまでは各国が独自に外交を進め、中国の影響も受けて情勢が複雑に変化した。倭国の朝鮮に対する外交政策は、当初は百済、加耶、栄山川文化との交流が中心となったが、新羅や高句麗とも交流した[9][10]。当時の外交では質 (むかわり)という制度を用いており、外交相手国に滞在して交渉をする人物を送るというもので、朝鮮半島の国家間で頻繁に質のやりとりがあった。倭国には、百済から質が来たほかに、新羅からも未斯欣という王子が質で派遣されている[11]。統一政権ができる前の倭諸国は、最大の勢力であるヤマト王権の外交に協力するか、渡来人のような集団を独自に用いて外交を行なった。北部九州や瀬戸内海は2つの方法を使い分け、播磨や吉備は独自の外交が多かった[12]

中国の歴史書では、『魏志倭人伝』や『漢書』のほかに『隋書』、『宋書』、『職貢図』、『三国史記』などにも当時の日本列島と朝鮮半島の関係が書かれている[† 2][† 3][† 4][† 5][† 6]

三国時代前半

三国時代の前半は、高句麗が満洲にまで領土を広げて最大の国家となった。百済は高句麗と対立を深めて、新羅は高句麗に従属した。4世紀後半、高句麗に服属を強いられていた百済は、高句麗に対抗するために倭国と交渉をする。倭国と百済の通交では、金官加耶に属する卓淳国が仲介をした[13]。百済は後の腆支王となる王子を倭国へ質として送り修好を結び、倭国は朝鮮半島に派兵をして倭・高句麗戦争となった。倭国は新羅を攻撃するが、高句麗の好太王が新羅を救援したことにより阻まれた。倭国は帯方郡にも侵入をするが、好太王により撃退された[14]

朝鮮半島の前方後円形墳の1つ。日本列島の前方後円墳同様に周堀を有する。

栄山江の流域は百済と異なる文化をもっており、倭国と独自に交流した。倭国は朝鮮半島から物資や先進技術を取り入れつつ、半島に行って生活する者もいた。栄山江流域の海岸沿いには、倭系古墳と呼ばれる日本型の古墳も築造されている。倭系古墳は、海を望む場所に独立して建てられ、石棺は北部九州に似ており、副葬品には倭系の武器や甲冑、そして百済の装飾品が多い。そのため、埋葬されているのは北部九州からの倭系渡来人の可能性もある。栄山江流域では、かつては倭国独特の墓とされてきた前方後円墳も5世紀後半から6世紀前半に築造されている。倭国の墳墓と似ているだけでなく、石室や埴輪型の副葬品などの共通点もあり、被葬者の出自について論争が続いている[15]。古墳は身分や出身にもとづく社会階層や外交関係も示すことから、前方後円墳の出現や大型化には中国や朝鮮半島の政治が関係しているという説もある[16]。日朝の寄港地だった沖ノ島は三国時代にヤマト王権の祭祀場となり、海上交通の祈願が行われた[17]

三国時代後半

百済から贈られた七支刀のレプリカ。石上神宮蔵。国宝

6世紀には新羅が強大になり、高句麗の領土が削られたため、高句麗は百済や倭国と友好関係を結んだ。継体天皇大伴金村による任那4県割譲など百済へ積極的な支援を行い、近江毛野に伽耶を防衛するため朝鮮半島方面への出兵を命じたが、九州の筑紫国造である筑紫磐井の謀反により磐井の乱が起きて断念した。当時の倭国は、朝鮮半島との外交権や貿易の利益をめぐってヤマト王権と豪族の対立が起きており、吉備氏の乱や、磐井の乱もこれに含まれる[18][19]。磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧されたものの、出兵は取りやめとなり、新羅は加耶の全域を併合した[20]。磐井の乱を鎮圧した朝廷は外交の統一を進めて、那津に外交施設を建設する。これがのちの鴻臚館の原型となった[21]

百済・加耶・新羅が倭国の臣民であったことを記録する好太王碑。「倭寇」という文字が初めて確認できる記録でもある

ヤマト王権は高句麗を破り、朝鮮半島に一定の勢威を有する。新羅も伽耶の調を献ずるなど倭国を立てる外交が行われた。朝鮮の三国は仏教や大陸文化を伝えることで倭国との誼を強くしようとする外交政策が行われた。しかし、推古朝の頃に新羅は任那を攻撃したため、倭国は任那救援軍を派遣し、新羅の5城を打ち破った。来目皇子を将軍とする軍が編成されるが、九州で来目皇子が病になり派遣は中止された[22]。新羅との関係は悪化し、代わりとして百済や高句麗との関係は重視された[23]皇極朝の頃に高句麗にて謀反があり、栄留王に対し宰相の淵蓋蘇文が王弟の子を擁立し宝蔵王が即位したことが報じられ、ヤマト王権は警戒を強めた[24]

百済・高句麗の滅亡と新羅の統一

朝鮮半島は、中国の唐と新羅の同盟が成立したことで統一に向かう。劉仁軌の唐軍と金法敏の新羅軍が百済を攻撃して扶余を陥落させ、義慈王と太子扶余隆が唐の洛陽に送られて百済が滅ぼされた。倭国は百済再興の名義で、安曇比羅夫朴市秦田来津阿倍比羅夫らの軍勢を朝鮮に派遣した。加えて百済の遺臣鬼室福信の要請により、倭国への質として送られていた百済の王子余豊璋を護送した。斉明天皇は余豊璋が旧百済の地に帰国する直前に百済王として即位させたと『日本書紀』に記録されている。倭国は百済の軍勢と共に白村江(現在の韓国・錦江)で唐・新羅軍と戦い、この白村江の戦いで倭国・百済軍は敗北した。百済の再興はならず、倭国は朝鮮半島から完全に撤退した。高句麗は百済の滅亡で軍事的に孤立し、唐の高句麗出兵宝蔵王らが唐に投降して滅んだ。

唐は新羅の文武王鶏林州都督府の大都督に任命して、朝鮮半島を羈縻州として支配しようとしたために唐・新羅戦争が起きた。新羅が唐を撤退させて朝鮮半島を統一すると、倭国は遣新羅使の派遣を始めて、新羅は日本に新羅使を派遣した。以後、遣新羅使と新羅使は中断をはさみつつ約150年間に渡って続くことになる。倭国からの遣唐使の航海では新羅の沿岸を通るため、新羅との関係は遣唐使にとって重要だった。倭国と新羅の関係が悪化したため、倭国は遣唐使を第7次派遣後に中断して、第8次は五島列島方面の南ルートを選んで再開した[25]

朝鮮半島統一と日本の対応

高麗郡のあった地に鎮座する高麗神社の拝殿

朝鮮半島の統一は、倭国に大きな影響を及ぼした。滅ぼされた百済や高句麗からは多数の亡命者が日本列島へ渡り、新羅からも仏教僧らが逃れて来て、倭国はこうした難民を受け入れた。高句麗からの亡命者には高麗郡を与えて、駿河、甲斐、相模、上総、下総、下野に住んでいた遺民を武蔵国に移住させた。同様に新羅人には新羅郡(のちの新座郡)を与えている。上野、下野でも移住は行われた。高麗郡大領となる高麗若光には王(こきし)の姓が贈られており、百済の亡命者は豊璋の弟・善光が百済王(くだらのこにきし)の姓が贈られ、百済王俊哲などの人物を輩出した[26][27]桓武天皇の生母である高野新笠は、百済系渡来人の家系にあたり、2001年明仁天皇による「ゆかり発言」に関連している(後述)。

九州本土の古代山城の分布

白村江の戦いの敗北と、同盟国の百済の滅亡によって、唐や新羅から日本列島への攻撃が予想された。天智天皇は防衛のために最前線の対馬、壱岐、北九州に兵士として防人を配備して、連絡用のを用意した。そして西日本に山城の造営を始めて、これに百済の亡命者も協力した。大宰府の防衛は水城大野城が担当しており、大野城と椽城は百済の専門家として憶礼福留らが作業を指導した。天智天皇が近江大津宮へ遷都した理由も、防衛のために交通の便がよい地を選んだとされている。唐が西方の吐蕃から攻撃を受けて東方への進出をやめるまで、日本と新羅は戦時体制が続いた[28]

ヤマト王権は防衛を整えるとともに、外交や貿易の施設として筑紫館(つくしのむろつみ)を設置した。大宰府が行政機能を有したのに対して、筑紫館は使節の宿泊や検問、貿易の取り引きをする施設となり、唐、新羅、渤海との交流に用いられた[21]

渤海・耽羅

渤海使が訪れた秋田城の復元

高句麗が唐に滅ぼされた後、その遺民によって渤海が建国された。渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結んで渤海使遣渤海使を交換した。34回の渤海使が日本に対して朝貢を行い、出羽国の秋田城、越前国の松原客館、能登国の能登客院にも渤海使が訪れた。当初の渤海は日本との政治的な結びつきを重視していたが、渤海と唐の関係が改善すると貿易が重視された[29][30][31]

日本は、済州島に成立した耽羅との間にも7世紀半ばから遣耽羅使・耽羅使を交換した。のちに耽羅は、莞島とともに海上貿易の拠点となる[32]

律令国家と新羅・高麗

律令国家の成立

日本列島では大宝律令が制定されて、それまで「倭国」を自称していたヤマト王権は「日本」を用いるようになった。外国に関する規定は中国の華夷思想をもとに定められて、天皇の統治の及ぶ地は化内、その外は化外となり、化外は隣国(唐)、蕃国(新羅、渤海)、夷狄(毛人隼人)に分類された。これによって、奈良時代以降の日本は、朝鮮半島に朝貢を要求するという外交政策を進めた。朝鮮半島を統一した新羅は対等の関係を望んで日本と対立し、渤海は唐との関係が改善したのちは日本を冊封による宗主国ではなく貿易相手国と見なした[33]

新羅と日本の緊張関係により、遣唐使が朝鮮沿岸を経由できなくなるなどの影響があったが、新羅の王子金泰廉らは天皇に拝謁して貢物を献上した[34]。朝廷の命を帯びない日本側の兵船300隻が突如、新羅を攻撃し、大敗したとの報が朝廷にもたらされた。朝廷は日本海側の沿岸防衛のために東海道東山道節度使を置き臨戦態勢を整えた[† 7]。その後、九州で天然痘が蔓延したため、朝廷は東国からの防人の徴兵を廃止し、壱岐、対馬の防人は筑紫国の人々とすることを決定した[36]。新羅に敗北した唐は新羅攻撃を計画して、日本に支援を求める。しかし当時の日本は天智天皇が崩御した直後であり、唐の使者に武具などを献上して出兵を免除された。唐の新羅攻撃は、チベットの吐蕃が西部の領土を攻撃したために中止された。唐の脅威の後退により、日本と新羅は臨戦体制から平時へと移行して中央集権化を進めた[37]

朝廷と新羅・高麗

統一国家として体制を整えた日本と新羅は、互いの地位をめぐって対立する。遣唐使では、新羅使と外交席次をめぐって争った。藤原清河を大使とする遣唐使の際、唐の大明宮含元殿にて玄宗の拝謁をする席上で、東畔の第一がチベットの吐蕃、第二が日本で、西側の第一が新羅、第二がイスラム帝国を指す大食であった。副使である大伴古麻呂が、新羅は日本の朝貢国であるのに日本が下位であるのを不服として抗議し、唐の将軍呉懐実は古麻呂が中々引く気配がないことから日本を第一の席に変更した。この翌年、小野田守が遣新羅使として派遣されたが、新羅の対応を不服として任務を果たさず帰国する[25]

唐で安史の乱が起きたという情報が日本にもたらされると、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備の強化を命じる。新羅使の金貞巻が日本を来訪した際に、大宰府に派遣された藤原朝狩が貞巻を尋問したところ、貞巻は国書を持参せず、17階中11階と下級官吏であることが判明した。日本は貞巻を賓待に値せずと追い返して、新羅の外交を非礼として新羅遠征の機運が高まった。朝廷は武蔵国美濃国両国の少年20人に新羅語を収得させるとともに東海道、南海道西海道に節度使を設置した[38]。そして新羅征討計画が立てられるが、後の孝謙上皇と遠征の主導者である仲麻呂との不和により実行されなかった[39]。そして紀三津を最後として遣新羅使を停止し、日本は新羅との国交を断絶した。国交がなくなったために外交使節による管理貿易も停止されたが、これによって日本と新羅の私貿易は増加した[25][40]

9世紀中頃になると、新羅は内紛で政情が不安定となる。統制がゆるんで新羅人が九州や対馬で海賊行為や沿岸の襲撃を行い、新羅の入寇として日本は対策に追われた。断交後も新羅商人の入国・貿易を認めていた朝廷も、貿易を口実に日本の政情をうかがう新羅人の存在を知り、藤原衛の奏上に基づいて、商人以外の新羅人の入国を禁止した[41]。この時期には国内で応天門の変が起きており、日本国内の政権抗争と同時期に入寇などの対外的緊張が起きたために新羅を排斥する傾向が生み出された。新羅の弱体化によって朝鮮半島は三国が並び立つ後三国時代となり、混乱は続いた[42]

後三国時代から新羅が滅んだのちに、高麗が半島を統一するが、北方の異民族である契丹の侵入と各地の豪族の内紛が続いた。高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着し、次には金海府の李純達が大宰府に到着した。高麗使が日本に入朝して国交を求めたが、朝廷は朝貢以外を認めないとして拒絶した。このために高麗や女真は日本沿岸を襲撃して、長徳の入寇刀伊の入寇が起きた[43]。高麗は両班制度で優遇された文人と、蔑視された武人が対立して、武人が国王に代わって政治を主導する武臣政権が成立する。武臣政権によって高麗王家が権力を失った状態は、モンゴル帝国の攻撃まで続く(後述[44]。政情が不安定な中で、高麗は仏教を国家制度に組み込み、仏教僧や寺院は税や兵役を免除された[45]

経済面

青銅と鉄の入手

壱岐の原の辻遺跡。全体の総面積は100ヘクタールにわたり、一支国の首都とされている

朝鮮半島を訪れる弥生人の主な目的は青銅と鉄だった。朝鮮半島で鉄関連の資料がある遺跡のうち45%の場所で弥生式土器も発見されている。鉄鉱石が産する達川遺跡や、鉄交易を行なっていた勒島遺跡などがある。『魏志倭人伝』の一支国の首都とされる原の辻遺跡には人工的な港があり、大陸や半島南部との貿易拠点として建設されていた[46]。漢が建設した楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されており、朝鮮人の他に日本人(倭人)も訪れて壱岐、対馬、北部九州へ運んだ。『魏志』弁辰伝には弁韓の鉄を求める倭からの来訪者が書かれており、『漢書』の地理志には「楽浪海中倭人あり」とある[47][48]銅鏡、鉄製品、ガラス玉など大陸の品を入手するために、日本側では海岸で生産した塩、そして稲や生口(奴隷)を送った。伽耶には、鉄を得るために倭人が訪れていたという記述が『魏志』にある[49]。ヤマト王権による統一前には、邪馬台国、九州北部の奴国や伊都国、瀬戸内海の吉備氏などが朝鮮半島と貿易をした。倭国は倭錦や真綿などの絹製品や、九州北部の穀物を輸出した。『魏志』には、壱岐島や対馬が市糴(穀物貿易)を南北で行なったという記述がある[50]

三国時代・新羅

倭国は三国の中で百済との贈答が盛んとなり、百済から贈られたとされる七支刀石上神宮に現存する。朝鮮半島からは工芸品や技術者、倭国からは兵や武器、穀物、繊維品が贈られた。朝鮮半島から日本列島に来た渡来人には工人もおり、4世紀に帯金式甲冑、4世紀後半に馬具が製作されるようになり、農具や工具も輸入された[50]

ヤマト王権による日本の統一と新羅の朝鮮統一により、日本と新羅は遣新羅使と新羅使が管理貿易を行なった。これが外交の緊張で使節が滞るにともない、新羅の海商が活動した。安史の乱によって唐の政情が不安定になると、陸上より海上の貿易が増加して、日本、新羅、唐、中国沿岸のイスラーム商人などが航海をした。海域の安全保障に貢献したのは、新羅の張保皐だった。張保皐は海賊の奴隷貿易を取り締まり、耽羅や莞島を拠点として日本・新羅・唐で貿易を行う。新羅商人を通じ、中国に入ってくる波斯国天竺などの産物も日本にもたらされた。律令法では購入権が朝廷、官司、貴族の順番で決められており、貴族が新羅の輸入品を買うには買新羅物解(ばいしらぎもののげ)という文書で申請が必要であり、こうした記録が正倉院文書として残っている。日本の輸出品は真綿、絹などで、新羅の輸出品は朝鮮人参、佐波理と呼ばれる合金製の食器、顔料、黄金、香料などだった[51]。最後の遣唐使の一員として留学をしていた僧の円仁は、張保皐や新羅商人の助けにより唐からの帰国を果たした。円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』には、治安が悪化する長安での生活、唐人や新羅人との交流、新羅商人の航海の様子が書かれている[52]

採掘

和銅遺跡にある大型モニュメント

日本では無文銀銭富本銭などの貨幣の鋳造が始まっていたが、最初に全国的な通貨となったのは和同開珎とされる。和同開珎の発行は元明天皇の時代に武蔵国秩父郡で和同(にぎあかがね)と呼ばれる純度の高い自然銅を発見して献上したことが契機であった。これを記念して和銅という元号が定められて、和同開珎が発行された[53]。この自然銅の発見に貢献した3名のうち1人が、渡来人である金上无であった。金は702年に従五位下に叙されたが、和銅を発見した功績によるものと見られている。[54]

渤海・耽羅

渤海貿易では日本の絹織物が輸出される一方、渤海からは貴族の間で珍重された虎や貂が輸入された。日本では渤海に対する回賜が財政の負担となり、朝貢の期間を12年に1度と変更した。済州島の耽羅も倭国に対して朝貢を行った[32]

文化面

漢字

稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)
埼玉県立さきたま史跡の博物館展示。左は表面、右は裏面。

木簡の分析によって、日本の漢字使用の開始に渡来人が関わっていたことが認められる。日本列島における言語表現としての漢字は5世紀の金石文があり、稲荷山古墳出土鉄剣の漢字には、朝鮮半島の木簡と同じ用法が見られる。飛鳥時代の木簡には、朝鮮半島系の漢字表記があり、音読みの方法として呉音や漢音のほかに古韓音も用いられている。古韓音は古代の朝鮮半島系の音読みで、中国の上古音に由来する。こうして中国語とは構造が異なる日本語を漢字で表現するための試行錯誤がなされていた。漢字は、7世紀までは朝鮮半島を経て日本列島へと伝わり、中国の漢字用法を直接に取り入れるのは遣唐使が始まった8世紀からとなり、新しい音読法として唐音がもたらされた[55][56]

暦・占術

日本列島に中国式の暦が伝わったのは5世紀後半となる。中国は冊封した国に暦学を送っており、倭の五王が中国南朝のに朝貢をした時に暦を与えられた。『日本書紀』は、456年から697年まで中国の元嘉暦にもとづいて書かれており、中国との交流が絶えていた期間は、百済から暦博士が来日して暦本も送られた。百済の僧観勒は、暦本、天文地理書、遁甲方術書をもたらし、陽胡玉陳、大友高聡、山背日立らの師匠となった[57]

儒教・仏教

百済からを中心として仏教が伝来した。百済は仏舎利のほかに僧侶、寺師、鑪盤博士、瓦博士、画工などの技術者をもたらした。百済の聖明王が欽明天皇に仏像、仏画、経典などを送り、高句麗は僧を送った。百済から倭国に経論や律師造仏工も献じられ、新羅も倭国に対し調と仏像を献じた。こうして三国の文物は日本の飛鳥文化に影響を与えた[58]。入朝した僧には、百済からの観勒、高句麗からの曇徴や、厩戸皇子の師になった慧慈がいた[23]。日本から朝鮮半島に渡った僧もおり、百済で受戒して日本最初の尼僧となった善信尼や、高句麗で修行をした慧慈らがいる。高麗は仏典を収集して印刷するという国家事業を行い、高麗の精緻な仏典は有名となり、中世には大蔵経を求める日本からの使者が相次いだ[45]

応神天皇時代に、百済から招かれた博士の王仁が、儒教における四書の1つ『論語』をもたらしたという伝承がある。百済からの渡来人としては王辰爾も儒教の普及に貢献した。王辰爾や王仁のように「王」を姓にもつ者は、中国を出自にもつ百済人の可能性もある[59]

技術・工芸

飛鳥寺(法興寺)復元図

朝鮮半島の南東には弥生式土器が発見されており、楽浪郡と北部九州をつなぐ弥生人の拠点があったとされている[60]。焼き物の須恵器、金工や製鉄などの金属加工技術、カマドなどの技術は5世紀に日本列島に伝わって急速に普及した。朝鮮の栄山江には前方後円墳などの倭系古墳があり、日本には女木島古墳など朝鮮半島系の古墳がある[61]。日本最初の仏教寺院である飛鳥寺の造営では、百済や高句麗が支援をした。建設では、蘇我氏の配下である渡来人技術者の東漢氏、忍沼氏、朝妻氏、鞍部氏、山西氏らが参加して、本尊の造仏には高句麗が黄金を送った[62]。日本産の青銅器の発見は紀元前3-4世紀、鍛造の鉄器は紀元前3世紀前後で、当初は朝鮮半島から入手した素材を再加工した。鉄鉱石からの製鉄が始まるのは6世紀後半、銅鉱石からの製銅が始まるのは7世紀からとなる[63]。日朝の古墳や交易地の遺跡からは交流を示す工芸品が発見されており、三累環頭、垂飾付耳飾、土師器、筒型銅器、晋式帯金具などがある[64]

文芸・芸能

王仁は、『論語』とともに漢文の長詩『千字文』をもたらしたという伝承もある。『千字文』の成立は6世紀であるため、百済からの渡来人によることが王仁の説話に加えられたとされる[59]。渡来人の歌人では、『万葉集』に歌を収録された田辺福麻呂背奈行文らがいる。中国との外交において重要な交流の要素だった漢詩は日朝外交でも用いられて、新羅使や渤海使などの使節をもてなす際に漢詩の唱和が行われた。使者の回数が多かった渤海は楊成規や裴頲らの詩才のある使者を選び、日本からは在原業平菅原道真紀長谷雄らが唱和に参加して競い合う場面もあった[65]。百済からは味摩之(みまし)の入朝により仮面劇の伎楽が伝えられて、外来芸能として発展していった[66]




注釈

  1. ^ 倭国では、高句麗を高麗(こま)と呼んだために、日本列島内に高麗郡や高麗神社などの名称があるが、のちに朝鮮半島で成立する高麗(こうらい)とは別の国を指す。
  2. ^ 隋書 東夷伝 第81巻列伝46 : 新羅、百濟皆以倭為大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來
  3. ^ 宋書 列傳第五十七 夷蠻 : 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王
  4. ^ 職貢図 : 斯羅国 : 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘
  5. ^ 三國史記 新羅本紀 : 元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質
  6. ^ 三國史記 百済本紀 : 六年夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月大閲於漢水之南
  7. ^ 実際は海賊との見方もある[35]
  8. ^ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
  9. ^ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
  10. ^ イギリス商館長リチャード・コックスの日記 1617年8月31日 ある人々(それは庶民であるが)は、朝鮮通信使が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと将軍は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している[120]
  11. ^ 理由として、政治的儀礼で与えられた銀は朝貢に対する回賜と解釈したとされる[124]
  12. ^ 日本国内で慰安婦についての議論があり、「単なる売春婦であり、性的搾取をはじめとした慰安所における人権侵害など何もない」「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」などといった主張がある。これらの主張を「日本版歴史修正主義」とする反論もある[172]
  13. ^ 震災後に中国で日本支援運動が起きたが、中国人も殺害されていた。その多くは浙江省の自然災害のため出稼ぎに来ていた農民だった[176]
  14. ^ 第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている
  15. ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  16. ^ 法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。
  17. ^ ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。
  18. ^ 日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。
  19. ^ なお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。
  20. ^ その後、閔は韓国国籍と日本での在留特別許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。
  21. ^ 斯盧国は503年に新羅と国号を改めた

出典

  1. ^ a b 宇野 1998.
  2. ^ 藤尾 2015, p. 37, 117.
  3. ^ a b 藤尾 2015, p. 72.
  4. ^ 佐藤 2002, p. 40.
  5. ^ 佐藤 2002, p. 108.
  6. ^ 佐藤 2002, p. 109.
  7. ^ 高田 2017, p. 31.
  8. ^ 森下 2016, p. 77.
  9. ^ 藤尾 2015.
  10. ^ 高田 2017, p. 17.
  11. ^ 高田 2017, p. 74, 106.
  12. ^ 高田 2017, p. 136.
  13. ^ 高田 2017, p. 72.
  14. ^ 宇野ほか 1990, p. 69.
  15. ^ 森下 2016, p. 167.
  16. ^ 森下 2016, p. 175.
  17. ^ 高田 2017, p. 61.
  18. ^ 高田 2017, p. 213, 218.
  19. ^ 宇野ほか 1990, p. 78.
  20. ^ 宇野ほか 1990, p. 80.
  21. ^ a b 大庭 2005.
  22. ^ 宇野ほか 1990, p. 86,87.
  23. ^ a b 宇野ほか 1990, p. 87,89.
  24. ^ 宇野ほか 1990, p. 95.
  25. ^ a b c 東野 2007.
  26. ^ 市 2012, p. 18.
  27. ^ 市 2012, p. 235.
  28. ^ 吉川 2011, p. 101.
  29. ^ 宇野ほか 1990, p. 135.
  30. ^ 伊藤 2006.
  31. ^ 酒寄 2011.
  32. ^ a b 中村 2012, p. 31.
  33. ^ 荒野 2012, p. 53.
  34. ^ 続日本書紀 & 天平勝宝4年6月14日.
  35. ^ 宇野ほか 1990, p. 122.
  36. ^ 宇野ほか 1990, p. 235.
  37. ^ 吉川 2011, p. 122, 156.
  38. ^ 宇野ほか 1990, p. 131.
  39. ^ 岸 1987, p. 261-292.
  40. ^ 河添 2014, p. 45.
  41. ^ 宇野ほか 1990, p. 145.
  42. ^ 山崎 2000.
  43. ^ 宇野ほか 1990, p. 173.
  44. ^ 網野 2000.
  45. ^ a b 小倉 2017, p. 108.
  46. ^ 藤尾 2015, p. 132, 140.
  47. ^ 藤尾 2015, p. 218.
  48. ^ 森下 2016, p. 20.
  49. ^ 森下 2016, p. 95, 99.
  50. ^ a b 森下 2016, p. 78.
  51. ^ 丸山 2010, p. 269.
  52. ^ 榎本 2010.
  53. ^ 三上 1998, p. 174.
  54. ^ 秩父市和銅保勝会
  55. ^ 犬飼隆、「漢字が来た道」『国立歴史民俗博物館研究報告』 2015年 第194巻 p.237-244, doi:10.15024/00002218, 国立歴史民俗博物館
  56. ^ 市 2012, p. 154, 234.
  57. ^ 市 2012, p. 38.
  58. ^ 宇野ほか 1990, p. 82, 86.
  59. ^ a b 市 2012, p. 42.
  60. ^ 高田 2017, p. 43.
  61. ^ 高田 2017, p. 6, 12.
  62. ^ 吉川 2011, p. 3.
  63. ^ 藤尾 2015, p. 117.
  64. ^ 高田 2017.
  65. ^ 村井 1995, p. 4.
  66. ^ 宇野ほか 1990, p. 87, 89.
  67. ^ 服部 2017, p. 190.
  68. ^ 村井 2001, p. 97.
  69. ^ 森平 2011.
  70. ^ 網野 2000, p. 157.
  71. ^ 服部 2017, p. 112.
  72. ^ 服部 2017, p. 114.
  73. ^ a b 田中 2012, p. 24.
  74. ^ 田中 2012, p. 36.
  75. ^ 田中 2012, p. 43.
  76. ^ 岡本 2008, p. 12.
  77. ^ a b c 伊藤 2005.
  78. ^ 佐伯 2008, p. 89.
  79. ^ 田中 2012, p. 50.
  80. ^ a b 田代 2002, p. 10.
  81. ^ 佐伯 2008, p. 6.
  82. ^ 佐伯 2008, p. 14.
  83. ^ 宇野ほか 1990, p. 186.
  84. ^ 池上ほか 1995, p. 81.
  85. ^ 本多 2015, p. 16.
  86. ^ 本多 2015, p. 20.
  87. ^ a b 本多 2015, p. 31.
  88. ^ 田中 2012, p. 30.
  89. ^ 村井 1993, p. 127.
  90. ^ 佐伯 2008, p. 98.
  91. ^ 田中 2012, p. 41.
  92. ^ 須川 1999.
  93. ^ 佐伯 2008, p. 14, 89.
  94. ^ a b c 網野 2009, p. 64.
  95. ^ 上里 2012.
  96. ^ 長 2002.
  97. ^ a b 田代 1983.
  98. ^ 上里 2012, p. 108.
  99. ^ 岡本 2008, p. 14.
  100. ^ a b 田中 1996.
  101. ^ 村井 1995, p. 32.
  102. ^ 村井 1995, p. 127.
  103. ^ 「室町水墨画の禅僧画家たちと朝鮮絵画 周文・秀文・分清そして」 福島 恒徳
  104. ^ 田中 2008, p. 28.
  105. ^ 三宅 2006, p. 55.
  106. ^ a b 仲尾 2007.
  107. ^ 鄭ほか 2008.
  108. ^ 津野 2017, p. 383.
  109. ^ a b 田中 1996, p. 116.
  110. ^ 倉地 2001, p. 185.
  111. ^ 池内 2017, p. 94.
  112. ^ 三宅 2006, p. 210.
  113. ^ a b 上垣外 2005.
  114. ^ 申 1719.
  115. ^ 李 1992, p. 284.
  116. ^ 岡本 2008, p. 34.
  117. ^ 糟谷 1996, p. 18.
  118. ^ 岡本 2008, p. 50.
  119. ^ 仲尾 1989, p. 2.
  120. ^ 東京大学史料編纂所 1979.
  121. ^ a b 三宅 1986.
  122. ^ 井上 2016, p. 3-25.
  123. ^ a b 田代 2002.
  124. ^ a b 安国 2016, p. 130.
  125. ^ 仲尾 2007, p. 173.
  126. ^ 吉田ほか 2011, p. 65.
  127. ^ 仲尾 2007, p. 171.
  128. ^ 李 1992, p. 117, 246.
  129. ^ 田代 2002, p. 第5章.
  130. ^ 野崎 1998, p. 126.
  131. ^ 奥谷浩一 2006, pp. 169.
  132. ^ 仲尾 2007, p. 160.
  133. ^ 李 1992, p. 291.
  134. ^ 村井 1995, p. 32, 38.
  135. ^ 倉地 2001, p. 151.
  136. ^ 青柳 1997, p. 5.
  137. ^ 倉地 2001, p. 80.
  138. ^ トビ 2008, p. 第5章.
  139. ^ 李 1992, p. 241.
  140. ^ 榊原 2002.
  141. ^ 坂井 1998.
  142. ^ 池内 1999.
  143. ^ 李 1992, p. 254.
  144. ^ a b 岡本 2008, p. 65.
  145. ^ 糟谷 1996, p. 30.
  146. ^ 今日の歴史(4月17日) 聯合ニュース 2009/04/17 閲覧
  147. ^ 糟谷 1996, p. 31.
  148. ^ 糟谷 1996, p. 37.
  149. ^ 糟谷 1996, p. 46.
  150. ^ 糟谷 1996, p. 58, 83.
  151. ^ 岡本 2008, p. 162, 181.
  152. ^ 糟谷 1996, p. 72.
  153. ^ 糟谷 1996, p. 70.
  154. ^ 小倉 2017, p. 294.
  155. ^ 劉 2012, p. 111.
  156. ^ 新城 2015, p. 33.
  157. ^ 金 1997, p. 39.
  158. ^ アイルランド 1926.
  159. ^ a b 国分ほか 2013, p. 16.
  160. ^ エッカート 1991.
  161. ^ 木村 2008, p. 11.
  162. ^ a b 李ほか 2017, p. 33.
  163. ^ 山室 1993, p. 37.
  164. ^ 山室 1993, p. 41.
  165. ^ 新城 2015, p. 37.
  166. ^ 山室 1993, p. 279.
  167. ^ 宮田 1985, p. 102-103.
  168. ^ 金 1997, p. 114.
  169. ^ “内地密航増加 釜山水上署で厳罰”. 大阪毎日新聞. (1943年6月15日) 
  170. ^ a b 朴 2014.
  171. ^ カミングス 1997, p. 第3章.
  172. ^ 高橋 2001, p. ⅲ.
  173. ^ 金 1997, p. 55.
  174. ^ a b 金 1997, p. 20.
  175. ^ 田中 2011.
  176. ^ 国分ほか 2013, p. 20.
  177. ^ 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会 2008 第4章第2節.
  178. ^ 金 1997, p. 57.
  179. ^ 木村 2008, p. 14.
  180. ^ 劉 2012.
  181. ^ 加藤 2009, p. 64.
  182. ^ 金 1997, p. 73.
  183. ^ 加藤 2009, p. 83.
  184. ^ 糟谷 1996, p. 43.
  185. ^ 李 2014.
  186. ^ 武田編 2000.
  187. ^ 金 1997, p. 17, 30, 45.
  188. ^ 金 1997, p. 60.
  189. ^ 金 1997, p. 66.
  190. ^ 糟谷 1996, p. 68.
  191. ^ 多田井 1997, p. 下巻.
  192. ^ 多田井 1997, p. 下巻240.
  193. ^ 小倉 2017, p. 261, 305.
  194. ^ 野崎 1998, p. 24.
  195. ^ 宮田 1985.
  196. ^ 野崎 1998, p. 23.
  197. ^ 任 1994.
  198. ^ 青柳 1997, p. 177, 205.
  199. ^ 青柳 1997, p. 10.
  200. ^ 野崎 1998, p. 115.
  201. ^ 糟谷 1996, p. 84.
  202. ^ 김기철 (2010年7月14日). “일제시대 휩쓴 베스트셀러 '딱지본'을 아십니까” (韓国語). 朝鮮日報. http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2010/07/13/2010071302149.html 2016年10月20日閲覧。 同記事日本語訳の前半:金基哲 (2010年7月18日). “日本統治時代のベストセラー「タクチ本」(上)” (日本語). 朝鮮日報日本語版. オリジナルの2010年7月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100720045043/http://www.chosunonline.com/news/20100718000004 2017年11月25日閲覧。 
  203. ^ 金 1997, p. 91.
  204. ^ 加藤 2009, p. 64, 96.
  205. ^ 五百旗頭 2010.
  206. ^ “拷問・戦争・独裁逃れ…在日女性60年ぶり済州島に帰郷へ”. 朝日新聞. (2008年3月29日). オリジナルの2008年4月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080401232255/http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY200803290044.html 2011年8月閲覧。 
  207. ^ 加藤 2009, p. 56.
  208. ^ 金 1997, p. 132.
  209. ^ 加藤 2009, p. 196, 217.
  210. ^ 李ほか 2017, p. 38.
  211. ^ 李ほか 2017, p. 35.
  212. ^ 今日の歴史(1月7日) 聨合ニュース 2009/01/07
  213. ^ 今日の歴史(3月24日) 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧
  214. ^ a b 李ほか 2017, p. 227.
  215. ^ 新城 2015, p. 230.
  216. ^ 木村 2008, p. 149.
  217. ^ 木村 2008.
  218. ^ 李ほか 2017, p. 157.
  219. ^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2017年11月25日閲覧。
  220. ^ 池内 2016.
  221. ^ 李ほか 2017, p. 208.
  222. ^ 日本経済新聞 2013/7/16 19:33 強制徴用訴訟で和解を提案 韓国弁護士協会会長
  223. ^ 李ほか 2017, p. 224.
  224. ^ a b 李ほか 2017, p. 231.
  225. ^ “日韓ダブルナンバー”. 西日本新聞. (2017年11月25日). http://www.nishinippon.co.jp/wordbox/article/8575 
  226. ^ “韓国紙、「歴代天皇で初」と詳報=埼玉の高麗神社参拝”. 時事通信. (2017年9月21日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2017092100859 2017年9月21日閲覧。 
  227. ^ 菊池 2009.
  228. ^ 特定船舶の入港の禁止に関する特別措置法”. e-Gov. 2017年11月25日閲覧。
  229. ^ 朝鮮民主主義人民共和国江原道元山市との友好都市盟約について”. 境港市. 2017年11月25日閲覧。
  230. ^ 東京新聞 2017/2/1 【特報】 米国の入国禁止に静観決め込む日本 そもそも人権後進国
  231. ^ “北朝鮮が「核で沈める」と日本を威嚇-「言語道断」と菅官房長官”. Bloomberg (ブルームバーグ). (2017年9月14日). https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-09-14/OW90MS6TTDS101 2017年11月17日閲覧。 
  232. ^ 時事通信 (2017年9月14日). “北朝鮮「列島、核で海に沈める」=制裁に便乗と日本非難”. Jiji.com (時事通信社). https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091400289 2017年11月17日閲覧。 
  233. ^ a b “北朝鮮基礎データ”. 外務省. (2017年11月25日). http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/data.html 
  234. ^ 井村 2000, p. 100.
  235. ^ 李ほか 2017, p. 84.
  236. ^ 井村 2000, p. 237.
  237. ^ 百本ほか 2012, p. 151.
  238. ^ 櫻谷 1999, p. 50.
  239. ^ 百本ほか 2012, p. 19.
  240. ^ 2007年8月13日 読売新聞
  241. ^ 大野、桜井 1997, p. 32, 38.
  242. ^ a b 百本ほか 2012, p. 168.
  243. ^ 百本ほか 2012, p. 184.
  244. ^ “わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告 -2017年度 海外直接投資アンケート結果(第29回)-”. 国際協力銀行. (2017年11月25日). https://www.jbic.go.jp/wp-content/uploads/press_ja/2017/11/58812/shiryo00.pdf 
  245. ^ 小林、中林 2010, p. 139, 144.
  246. ^ 百本ほか 2012, p. 189.
  247. ^ 山田吉彦「北朝鮮が中国に売った「日本海」漁場」新潮45、2017年4月号
  248. ^ “北朝鮮 中国に東海NLLの漁業権も販売=代金は統治資金に”. 聯合ニュース. (2016年8月11日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2016/08/10/0300000000AJP20160810005900882.HTML 2017年12月16日閲覧。 
  249. ^ “北朝鮮船相次ぎ漂着 制裁下、食糧・外貨は漁業頼み”. 日本経済新聞. (2017年11月28日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23994130Y7A121C1EA1000/ 2017年12月16日閲覧。 
  250. ^ 李ほか 2017, p. 157, 230.
  251. ^ “日韓相互交流1000万人目標 観光振興協議会、熊本市で開催”. 日本経済新聞. (2017年11月25日). https://www.nikkei.com/article/DGXLZO10461240Y6A201C1LX0000/ 
  252. ^ 李ほか 2017, p. 232.
  253. ^ “第5回日韓共同世論調査 日韓世論比較結果”. 特定非営利活動法人 言論NPO ・ 東アジア研究院. (2017年11月25日). http://www.genron-npo.net/world/archives/6677.html 
  254. ^ 新城 2015.
  255. ^ “プログラムの特徴”. アジア太平洋カレッジ. (2017年11月25日). http://rcks.kyushu-u.ac.jp/cap/?page_id=298 
  256. ^ 金 2014.
  257. ^ 李ほか 2017, p. 180.
  258. ^ 李ほか 2017, p. 153.
  259. ^ “第38回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=38 
  260. ^ “韓国地上波放送で日本歌手が日本語の歌、初の生放送”. 聯合ニュース. (2010年9月13日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2010/09/13/0800000000AJP20100913000800882.HTML 2011年2月16日閲覧。 
  261. ^ “第53回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=53 
  262. ^ “第59回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history.html?count=59 
  263. ^ “第62回紅白歌合戦”. NHK紅白歌合戦ヒストリー. (2017年11月25日). https://www.nhk.or.jp/kouhaku/history/history_62.html 
  264. ^ “韓国の「村上春樹旋風」と「東野圭吾人気」に見る時代の変化”. 文春オンライン. (2017年11月25日). http://bunshun.jp/articles/-/3427 
  265. ^ 第一回日本翻訳大賞受賞作決定”. 日本翻訳大賞. 2017年11月25日閲覧。
  266. ^ ユネスコ 世界の記憶に「朝鮮通信使」「上野三碑」登録”. 毎日新聞. 2017年10月31日閲覧。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日朝関係史」の関連用語

日朝関係史のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



日朝関係史のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日朝関係史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS