大家七平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:12 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動経歴
船持商人・4代広海二三郎の息子として加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)で生まれた[4][5]。同じ瀬越の有力船持商人・3代大家七平が1886年(明治19年)[注 1]に死去し、その死跡を継いで4代大家七平を襲名した[2][3][5]。
拠点を大阪に移し、持船の汽船への転換を進めた[5]。1896年(明治29年)逓信省より新潟とウラジオストク間、函館とコルサコフ間の航路(命令航路)を開設[5]。1902年(明治35年)には汽船2隻、西洋型帆船5隻を所有していた[5]。1903年(明治36年)大家商船合資会社を設立して代表社員となる[5]。日露戦争には御用船に汽船3隻を提供した[5]。1907年(明治40年)鉱山業を開始し、1921年(大正10年)大家商事 (株) を設立した[5]。その他、日本海上保険取締役、大阪瓦斯社長、日本海運業同盟会阪神支部委員、大阪商工協会名誉会員などを務めた[1]。
1911年(明治44年)石川県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[6]から1912年(明治45年)5月23日まで在任した[1][7]。
1929年1月、大阪で死去した[5]。
親族
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 丸山雍成・小風秀雅・中村尚史『日本交通史辞典』吉川弘文館、2003年。
- 『書府太郎 石川県大百科事典 改訂版』上巻、北國新聞社、2005年。
注釈
出典
- 1 大家七平とは
- 2 大家七平の概要
- 大家七平のページへのリンク