吉田義男 プレースタイル

吉田義男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 05:01 UTC 版)

プレースタイル

守備

ライバル・広岡達朗と(1956年オールスターゲーム)
1956年のオールスターゲーム第2戦でMVP獲得

華麗で俊敏な遊撃守備は、「捕るが早いか投げるが早いか」「蝶が舞い蜂が刺す」「史上最高の遊撃手」などの賞賛をうけ、その身のこなしから「今牛若丸」と呼ばれた。その守備力は、17年間の現役生活で15度のリーグ最多守備機会を記録し、1試合15守備機会[注 4]、シーズン94併殺など数々のリーグ記録、日本記録を更新した。1955年日米野球では全日本チームのメンバーとして出場し、ニューヨーク・ヤンキース監督のケーシー・ステンゲルから「(吉田の守備は)メジャーリーグでも通用する」と称賛を受けている[34]

若手時代、南海ホークスの遊撃手だった木塚忠助のプレーを見て守備の動きを学んだと語っている[35]。ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)設立以前の当時は、遊撃手や捕手についてはベストナインがゴールデングラブ賞の代わりとなっていたが、吉田は9度も受賞している。三塁の三宅秀史、二塁の鎌田実と組んだ内野守備は史上最強と言われた[36]

「名手吉田」と呼ばれる陰には人知れぬ精進があった。入団初年度は38、2年目も30の失策を記録し、「牛若丸は失策王」とも言われたと著書に記している[37]。入団当初、しばらくはグローブとボールとをいつも手元に置いていた。食事の合間にも、グローブからボールを離す動作を止めなかった。右手の指の感覚でボールの縫い目を瞬時に探す練習であった。こうして、プレー中も捕球からスローイングの敏捷な動作が生まれたのである。その捕球から送球への俊敏な動作は敵打者はおろか味方の一塁手すらついていけなくなりそうになることがあり、一塁を守っていた遠井吾郎に「もう少しゆっくりほうって下さい」と頼まれたこともあるという。しかし、それは猛練習によって身についた動きのリズムを逆に崩すことになり、いくらチームメートのお願いでも譲るわけにはいかなかったため、走者がいないのにわざわざ二塁へ送球して鎌田から一塁の遠井へ送球していた。それでもぎりぎり追いつくかどうかだった。

また、捕球を安定にするためには体の正面で捕球することが大切なことを意識し、「両足とグラブが正三角形の頂点を作る」練習を繰り返した。どんなゴロが来てもグラブを伸ばすのではなく、フットワークを使って正面で捕ることを心がけた。この安定した捕球も送球への動作を崩さないための大切な要素だと語っている[38]

当時監督だった松木謙治郎は、ボールをグラブにぶつける動作を繰り返したことで手首も強化され、非力だった打力の向上にも役立ったとしている[39]。ただし、キャンプ等で相部屋となった選手は、吉田がボールをグラブに入れる「バシ」という音が四六時中繰り返されるため、閉口したという。

吉田本人は自らの努力も認める一方で「グラウンド(甲子園球場)の状態が良くイレギュラーバウンドも少なかったし、何より小山正明渡辺省三村山実などコントロールのいい投手が多かったので守りやすかった」と環境の良さにも敬意を表している。また、投手の投球の性格によって投手の調子が判断できたと語っている。たとえば小山の調子が良い時は速球が走っているため飛球三振が多く「内野手はヒマだった」という。一方、渡辺省三の調子が良い時は低目に変化球がコントロールされているのでゴロが多く「内野手は忙しかった」と語っている。その逆の場合は「今日は調子が悪いな」という見極めができたという[40]

巨人の広岡達朗は学生時代から存在を意識した遊撃手のライバルであった。大学入学前に同行した安部球場での練習試合の際、併殺を逃れるためにスライディングした広岡に左すねをスパイクされたことが出会いであったという[41]。広岡は、当時は吉田の華麗な守備と常に比較されたため「(吉田を基準に守備力を評価されたため)甚だ迷惑した」と語っている。後年解説者となった広岡は遊撃手を批評する際には頻繁に吉田の名をあげ、自分も含めて殆どの内野手は「取ってなんぼ、アウトにしてなんぼ」のレベルだが、吉田は「取ってアウトは当たり前、見せてなんぼ」の選手だったと脱帽している。二人が共に現役にあった間、遊撃手のベストナイン選出は吉田の9回に対して広岡は1回であった。広岡は基本に忠実、正確確実なプレーを信条としたが、これは吉田への対抗意識も多分にあるという[40]。一方、吉田は広岡について「現役時代は私のほうが上だと言ってもらえることが多かったが、監督としては足元にも及ばない」と語っている。ただし、1985年の日本シリーズでは広岡の率いる西武に勝っている。

藤田平が台頭した現役最晩年は二塁手としてもプレーしているが、自身は「私は二塁手は失格ですわ」と語るなど、やや否定的な評価をしている[42]

打撃・走塁

打率こそ高くはなかったが、通算1800本以上の安打を放つなど打撃も優れており、粘り強く[43]、三振が非常に少なかった[44]。確実に進塁打を打つ能力に長けていたため、相手投手に嫌がられた。特に400打席近く対戦した金田正一は「あいつとだけは対戦したくない」と常々口にしていたほどに吉田を苦手にしており(吉田から三振を奪ったのは15回だけである)[45]、金田からプロで初めてサヨナラ本塁打を放った打者も吉田である[46]。2019年の金田の死去に際しては「ぼくは背が低かったが高めのボールが好きで、バットを寝かせて構えた。カネさんが投げ下ろしてくる剛速球が高めにきたところをよく打ちました」と回想し、それでも金田がマウンドから「おいっ、チビっ、打ってみぃ!」と挑発したというエピソードも交え、「永遠のNO・1投手です」と称えた[47]

4度のリーグ最多犠打、通算264犠打を記録している。このうち通算犠打については、吉田が現役を引退した時には当時のプロ野球記録でもあった(現在のプロ野球記録は川相昌弘の533犠打)。

1954年に51盗塁1956年に50盗塁で2度の盗塁王に輝いた。阪神では20世紀最後の盗塁王である。1954年のシーズンは20歳で開幕を迎えており、この年齢での盗塁王獲得は日本プロ野球最年少の記録となっている[注 5]。通算350盗塁は、2009年に赤星憲広が更新するまで40年にわたって阪神の球団記録だった。


注釈

  1. ^ これについて吉田は、事実は異なり実際には助監督の西村正夫の誘いがあったが自ら断ったと記している[2]
  2. ^ この間の経緯については吉田の著書でも記述にぶれがあり、『阪神タイガース』では「協力」の内容は知らされず、吉田は現役として残るニュアンスで受け取ったとしているのに対し、『牛若丸の履歴書』ではコーチとして協力するよう求められ、後日球団事務所に行った際には「コーチ契約の話かと思ったら身を引けと告げられた」となっている[4]。当時の「スポーツニッポン」を調べた中川右介は、12月13日の最初の戸沢との面談では選手としての残留を求められ、21日の二度目の面談で戸沢の発言は「ユニフォームを脱いでも必要」と変わり、24日の三度目の面談の際に引退を勧められたとしている[4]
  3. ^ 一例として2008年3月に朝日放送道上洋三茨城ゴールデンゴールズと対戦するために編成した「ABCドジョーズ」に両者が参加した際、会話したことが『牛若丸の履歴書』に記されている(同書P94 - 97)。
  4. ^ 非公式記録であるが、1リーグ時代の1940年8月8日に山田潔イーグルス)が1試合16守備機会を記録している。[1]
  5. ^ 2005年に千葉ロッテマリーンズ西岡剛がタイ記録を樹立。

出典

  1. ^ “連載 我が野球人生”. 日刊スポーツ: p. 3. (2007年12月11日) 
  2. ^ 吉田義男『牛若丸の履歴書』日本経済新聞社、2009年、38-39頁。
  3. ^ 阪神・中野、新人遊撃手100安打到達 球団では吉田義男以来68年ぶり”. デイリースポーツ (2021年9月22日). 2021年9月22日閲覧。
  4. ^ a b 中川右介『阪神タイガース 1965-1978』KADOKAWA角川新書》、2016年、pp.186 - 188
  5. ^ 中川右介『阪神タイガース 1965-1978』、p182。政岡の著書は『猛虎人脈 阪神はなぜ優勝できない!?』(リイド社、1982年)である。
  6. ^ チームヒストリー”. 千葉ロッテマリーンズウェブサイト(1970年の箇所を参照). 2015年5月27日閲覧。
  7. ^ 朝日新聞1971年10月17日23頁
  8. ^ 寺尾博和 (2019年5月9日). “小学生時の新天皇陛下に日本Sで説明役/吉田義男”. 日刊スポーツ. https://www.nikkansports.com/baseball/column/analyst/news/201905090000452.html 2019年8月31日閲覧。 
  9. ^ “吉田元阪神監督、名誉会員に フランス野球界に貢献”. 47NEWS (共同通信社). (2011年7月21日). http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072101000069.html 2015年5月27日閲覧。 
  10. ^ “IBAFの五輪復帰委員に元阪神監督・吉田義男氏”. Sponichi Annex. (2011年11月17日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/17/kiji/K20111117002043930.html 2014年7月6日閲覧。 
  11. ^ “La billetterie du France International Baseball Tournament ouverte !”. FFBS. (2014年6月20日). オリジナルの2014年7月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140714230856/http://www.ffbsc.org/edit.asp?typ=1&id=3442 2014年7月6日閲覧。 
  12. ^ a b 【内田雅也の猛虎監督列伝(18)~第18代・吉田義男】マスコミに担がれ、マスコミに切られた”. スポーツニッポン (2020年5月8日). 2021年4月29日閲覧。
  13. ^ 日本経済新聞朝刊『私の履歴書・江夏豊(21)決別 契約更改なく「トレード」 力の衰え痛感「成績が全て」 』2017年12月22日
  14. ^ 江夏豊、波多野勝『左腕の誇り 江夏豊自伝』草思社、2001年。
  15. ^ 『九州ライオンズ激闘史―1950-1978 (B・B MOOK 1123)』ベースボール・マガジン社、2014年、101頁。
  16. ^ 江本孟紀『野球バカは死なず』文藝春秋<文春新書>、2018年、pp.177 - 178
  17. ^ 田淵氏殿堂入り「阪神球史に残る大打者」/吉田義男”. 日刊スポーツ (2020年1月14日). 2020年9月14日閲覧。
  18. ^ a b 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、47-48頁。
  19. ^ 1985年 ヨッさん突然キャンプ地変更 「若手にチャンスを」日本一の土台作り”. サンケイスポーツ (2020年4月26日). 2021年4月29日閲覧。
  20. ^ 【10月16日】1985年(昭60) 阪神21年ぶりV!苦節8年、吉田義男が男になった日”. スポーツニッポン (2009年10月1日). 2019年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。
  21. ^ ドラフト1位遠山、吉田監督は”ケチなひと”!? (水本義政)”. 産経WEST (2013年1月23日). 2021年4月29日閲覧。
  22. ^ a b 【セ・パ誕生70記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.3 [1987年編] (週刊ベースボール別冊立春号)ベースボール・マガジン社、2020年、92頁
  23. ^ 『別冊宝島 プロ野球<ウラ読み>読本』宝島社、1998年、204頁。ISBN 978-4796694209
  24. ^ 【9月7日】1987年(昭62) 2年で完全崩壊 吉田義男監督「けじめをつけたい」”. スポーツニッポン (2010年9月1日). 2018年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。
  25. ^ 週刊文春2020年1月30日号、サラリーマン球団社長、清武英利、120頁
  26. ^ 吉田義男氏「ヨコジマ発言叱られた」”. 日刊スポーツ. 2021年4月29日閲覧。
  27. ^ 【5月17日】1997年(平9) “国際派”よっさん、外国人審判に宣告された24年目の初退場”. スポーツニッポン (2009年5月1日). 2019年8月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日閲覧。
  28. ^ [2]
  29. ^ 内田雅也が行く 猛虎の地<14>ホテル竹園芦屋(旧竹園旅館)”. スポーツニッポン (2018年12月17日). 2021年4月29日閲覧。
  30. ^ 星野氏 中村紀洋獲得のためタクシーのトランクで脱出の過去”. NEWSポストセブン (2011年10月14日). 2021年4月29日閲覧。
  31. ^ 【内田雅也の猛虎監督列伝(27)~第27代 吉田義男】異例3度目就任「ムッシュ」が見せた涙と笑い”. スポーツニッポン (2020年5月17日). 2021年4月29日閲覧。
  32. ^ 週刊文春2020年2月13日号、サラリーマン球団社長、主流派閥との闘い、清武英利、61頁
  33. ^ 【「鬼筆」越後屋のトラ漫遊記】ノムさん「エースと4番は育てられない」…痛感させられる藤浪の資質 (2/4ページ)”. サンケイスポーツ (2015年9月6日). 2021年4月29日閲覧。
  34. ^ “【10月23日】1955年(昭30)ヤンキース名将認めた「打者ではヤマウチ」”. スポーツニッポン. オリジナルの2007年10月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071027112712/https://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071016146.html 2015年5月27日閲覧。 
  35. ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年
  36. ^ 本間勝交遊録|阪神タイガースの球団発行誌「月刊タイガース」
  37. ^ 『牛若丸の履歴書』、52頁。
  38. ^ 文春Numberビジュアル文庫「巧守好走列伝」文藝春秋社
  39. ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年、334頁。
  40. ^ a b 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」. 文藝春秋社.. (1990年) 
  41. ^ 『牛若丸の履歴書』、40頁。
  42. ^ 「レジェンドに聞け」『週刊ベースボール』2014年6月2日号、ベースボール・マガジン社、 72頁。
  43. ^ 「牛若丸の一打 吉田 義男(阪神)
  44. ^ よく三振する打者はだれか?|野球史 野球の記録で話したい
  45. ^ “金田正一の苦手は吉田義男のみ 桑田真澄は和田、宮本、井端”. News ポストセブン. 小学館. (2014年1月19日). https://www.news-postseven.com/archives/20140119_236327.html 2016年11月29日閲覧。 
  46. ^ “【5月28日】1957年(昭32) どうも苦手…金田正一 プロ8年目で初のサヨナラ被弾”. Sponichi ANNEX【日めくりプロ野球】. スポーツニッポン新聞社. (2012年5月28日). オリジナルの2013年5月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130515224629/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1205/kiji/K20120528003347190.html 2016年11月29日閲覧。 
  47. ^ “吉田義男氏「投手から挑発するのはカネさん1人」”. 日刊スポーツ. (2019年10月6日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910060001348.htm 2019年10月22日閲覧。 






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