北サルカール 北サルカールの概要

北サルカール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/23 13:49 UTC 版)

北サルカールに相当する地域
アーンドラ地方における北サルカール(海岸部の諸県)

また、北サルカールはかつて、ラージャムンドリーグントゥール、コンダパッリ、エールール、チカコールの5に分けられていたため、北サルカール5郡とも呼ばれる。

歴史

1471年デカンバフマニー朝が北サルカールを占領し、その分裂後はゴールコンダ王国の支配下となった。

1687年ムガル帝国アウラングゼーブにゴールコンダ王国が滅ぼされると、北サルカールも併合された。

1724年、ムガル帝国からニザーム王国が独立すると、北サルカールはその領土となった。

1753年11月23日サラーバト・ジャングフランス軍の駐留費として、フランスとアウランガーバード条約を結び、北サルカールを割譲した。

1765年8月16日イギリスの官吏ロバート・クライヴアラーハーバード条約により、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世から北サルカール地域の徴税権を獲得した[1]

これにより、1766年3月以降にイギリスはフランスの北サルカールを侵略し、同年11月12日ニザームから北サルカール5郡を正式に割譲された。

19世紀、北サルカールはマドラス管区の一部を形成するところとなり、1947年までその支配下に置かれた。

参考文献

  • 辛島昇編 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年

関連項目




「北サルカール」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北サルカール」の関連用語

北サルカールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北サルカールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北サルカール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS