乙屈利失乙毘可汗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 07:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動生涯
貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗(イシュバラ・テリシュ・カガン)配下の吐屯俟利発(トゥドゥン・イルテベル:官名)が乙毘咄陸可汗(イルビ・テュルク・カガン)と密通し造反したので、沙鉢羅咥利失可汗は抜汗那(フェルガナ)国に逃れたが死去した。国人はその子を立てて乙屈利失乙毘可汗としたが、貞観14年(640年)になって死去した。そこで、弩失畢部の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那設(カーナー・シャド Kānā Šad)の子である薄布特勤(畢賀咄葉護、バガテュル・ヤブグ)を迎え、乙毘沙鉢羅葉護可汗(イルビ・イシュバラ・ヤブグ・カガン)とした。
子
参考資料
- 『旧唐書』(列伝第百四十四下 突厥下)
- 『新唐書』(列伝百四十下 西突厥)
- 佐口透・山田信夫・護雅夫訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年、平凡社)
- 内藤みどり『西突厥史の研究』(1988年、早稲田大学出版部、ISBN 4657882155)
- 1 乙屈利失乙毘可汗とは
- 2 乙屈利失乙毘可汗の概要
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