七破風の屋敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/19 15:40 UTC 版)
象徴性
実際、この作品では、過去の"呪い"からの開放はあまりにもうまくいきすぎているようにさえ見えるくらいである。ピンチョン判事の死も結局は先祖の大佐の死と同じく一種の自然死にほかならず、重層的に設定されたミステリーとサスペンスは、最後にはすべて合理的に説きあかされてしまう。ホールグレーヴは急進主義者から一転して保守主義者となり、クリフォードとヘプジバーはあたかもかつての孤独な生活を忘却しさったかのように新しい幸運を受けいれ、あの聡明な、美しい娘フィービーでさえも、あるいは平凡な妻になってしまうかもしれない。こうした結末の一種のどんでん返しは、この作品にどこか甘さを与えているとも考えられるが、しかし、それでこの作品の価値が減じることは毫もないだろう。なぜなら、ここにはやはり、過去の"呪い"というよりは、むしろ過去が残した孤独な人間たちの悲劇的な映像と、その人間たちと愛によって深く連帯しながら、彼らの周辺に滔々と渦まいている同時代の激しい世界に力強く結抗していこうとする新しい、若い世代の人間の映像とが、深く刻みつけられているからである。
ホールグレーヴの保守主義への転向はあるいは意図された逆説なのかもしれず、苦難によって一人前の"女"となったフィービーと彼は、あるいは実際に新しいエヴァとアダムであるのかもしれない。ここにも曖昧性はたしかに残るが、ピンチョン判事の描写を通じての厳しい社会批判、クリフォードの映像を通じての人間疎外の深い認識 (アーチ型の窓におけるアブサードなクリフォード、汽車に乗って空しい逃亡を企てる彼とヘプジバーのいじましい姿は、凄絶なほどに読む者の心を打つ)、「死」を契機にした若い男女の結びつきを通じての深遠な人間性の洞察などは、今日なお直接にわれわれに訴えかける現代性をもっているというべきであろう。
『七破風の屋敷』は一見古めかしいロマンスのように見えるが、合理性と非合理性の相剋から立ちあらわれるその深深とした象徴性は、むしろきわめて現代的であると考えられるのである。
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