レオニダス1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 10:16 UTC 版)
生涯
レオニダス1世はアナクサンドリデスの息子であり、先王クレオメネス1世の異母弟である。レオニダスは三男であり、本来王位にはつきにくい身であったが、二人の兄であるクレオメネス1世とドリエウスの両方が相次いで早逝した。アナクサンドリデスは紀元前520年に亡くなり[1]、その後クレオメネスは紀元前516年までの間に王位を継いだ[2]。ドリエウスはスパルタ人が腹違いの兄を好み、自身がこれ以上スパルタに留まることができないと知ったため激怒した。彼はアフリカに植民地を設立しようと試みたが失敗した。その後シチリアに財を探し、当初は成功したが、殺害された[3]。この敵対的な腹違いの兄とレオニダスの関係は不明であるが、彼はクレオメネスの一人娘ゴルゴーと結婚して、王位を継いだ[4]。
ペルシア戦争を控えてデルポイに神託を聞いたところ「王が死ぬか、国が滅びるか」ということだった。そこでレオニダスは覚悟を決め、他の都市から来た兵士を帰し、わずかな軍でペルシアの大軍に立ち向かっていったのだとヘロドトスは記している。さらにこの時、スパルタではカルネイア祭、オリンピアではオリュンピア祭を開催する年であったことも重なり、十分な軍を送ることができず、レオニダスは親衛隊300人のみを率いて出陣した。紀元前480年のテルモピュライの戦いに赴く時、死を覚悟した彼は出陣の直前に妻に「よき夫と結婚し、よき子供を生め」と言い残したという。
彼はテルモピュライでスパルタの重装歩兵300名を含むギリシア連合軍7000を率いて戦った。テルモピュライは隘路であったため、少数の軍でも大軍を食い止めることができた。スパルタのファランクスは無敵であり、クセルクセス1世は狭い地形のせいで騎兵を展開することもできず、自軍よりはるかに少数のギリシア連合軍に手こずった。真正面からギリシア連合軍を突破することは不可能だと悟った頃、内通者がペルシア側にギリシア軍の後ろに回りこむ裏道を教えたため、クセルクセス1世はギリシア連合軍を背後から攻撃しようと迂回部隊を裏道へ進ませた。これを知ったギリシア連合軍は撤退を決定したが、スパルタ軍はその場に残った。この時、殿として最後まで残ったとも、スパルタの掟「決して撤退せぬ」を遵守したとも言われている。スパルタ軍の他に、テーバイ軍、テスピアイ軍も残った。
朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後に到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーロン・ラベ」(来たりて取れ、en:Come and take it)であった。
レオニダスはスパルタ軍、テスピアイ軍、テーバイ軍を率いて戦った。今回は隘路ではなく、テルモピュライの広場まで打って出た。広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回に及んだ。スパルタ軍は優勢であった。しかし、背後から迂回部隊が進軍してくると、ギリシア軍は再び隘路まで後退し、その先にあった小丘に陣を敷いた。彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ軍は倒され、テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。戦いの後、クセルクセスは部下にレオニダスの死体から首を刎ねるよう命じ、晒し首にした。
彼の死後、王位は息子のプレイスタルコスが継いだ。
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