リッチャヴィ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/03 14:30 UTC 版)
衰退
シヴァ・デーヴァ2世とチベットの属国化
ナレーンドラの跡を継いだシヴァ・デーヴァ2世はこれといった業績のない王で、この時代、ネパールはチベットの従属国化が進む。シヴァ・デーヴァ即位まもない695年、チベット王ティ・ドゥーソンがネパールを訪問し、続けて699年にも訪れている。チベット王子がチベット側のネパール王となっていた[7]。
703年 - 704年、ネパールはチベット南境にあった諸国とともにチベットに反乱を起こし、チベット王、ティ・ドゥーソンは死亡し、内紛が起こるが、結局収まり、新しい王が即位する。シヴァ・デーヴァ2世の布告文は705年を最後に姿を消し、その後、8年間、記録が途絶える。王位の空白があったと見られる[8]。
詩人王ジャヤ・デーヴァ
712年、即位に当たって、ネパール皇太子ジャヤ・デーヴァはチベット王ティデ・ツクツェンに服属を誓わせられたのではないかと佐伯は推測している[9]。
実際、ジャヤ・デーヴァの治世(713年頃-733年頃)はインドにこそ脅威を与えていたが、その実チベットの属国であった。
王は詩人として優れていた。パシュパティ神に捧げる34節の叙事詩を大石碑に刻んだ。学者、詩人等を庇護し、宮廷文化が栄えた。
その後の王たち
その後のネパール王には布告文は残っておらず、その名のみが伝えられている。いちじるしく王権が衰退したと推測される。王自身が残した銘文は1点のみで、あとは民間のものである。877年、マーナ・デーヴァ4世(Mānadeva IV)が死去。
デーヴァ王朝
2年後の879年、デーヴァ朝のラーガヴァ・デーヴァが即位する。ネパールは中世に入る。
- リッチャヴィ朝のページへのリンク