リッカルド・ムーティ
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フィラデルフィア時代
引退を考えていたユージン・オーマンディがムーティのコンサートに訪れ、その驚異的な才能に一目惚れしてムーティ招聘を働きかける。その後首席指揮者を短期間務め、正式にオーマンディの推挙により1980年、音楽監督に就任する。就任後はオーマンディが築いた「フィラデルフィア・サウンド」を踏襲しつつも、オーマンディの静に対して極めて動的、ドラマティックで熱い演奏を繰り広げて聴衆や楽員の支持を得た[1]。EMIへの録音も盛んになり、オーマンディは私財を投じてムーティのために録音施設を建設した。晩年はPhilipsにも録音を行い、ブラームスやプロコフィエフで演奏を残した。カラヤンが他界して「ポスト・カラヤン争い」が勃発したとき、ムーティもその候補に挙がった。しかし早期に撤退を表明する。直後の1992年、激務に耐えられなくなったことを理由にフィラデルフィアを辞任した。その後数年、後任のヴォルフガング・サヴァリッシュの活躍でフィラデルフィアは好調を維持したが、次のクリストフ・エッシェンバッハ時代に低迷、そこでムーティ復帰を掲げて何度か招聘に乗り出すが失敗。代替案で桂冠指揮者への就任も打診するが辞去される。結果として数度の客演に止まり、その後の共演予定は立たなくなった。2009年3月12日、ムーティはフィラデルフィアの低迷を心配するコメントを発表した[2] が、程なくして同楽団は破産法適用の申請を行った。
ミラノ・スカラ座時代
1986年、クラウディオ・アバドの後任として音楽監督に就任する。就任後は極めて強力な改革を推し進め[要出典]、スカラ座の復権・復興に効果[要出典]を上げた。カラヤンの失敗以来、各指揮者が敬遠していた「椿姫」をティツィアナ・ファブリチーニの起用により上演し、封印を破ったことは特筆に価する。その後もEMIやSONYに多くのオペラ録音を行って足跡を残す。ブーイング集団を秩序維持のために場外に追いやって物議を醸すなど、一部常連客らとの対立もあった[1] が、ムーティはスカラ座に長期にわたって君臨した。
しかし2005年3月16日に、スカラ座の管弦楽団員と職員の投票により圧倒的多数で不信任を表明される。これは、スカラ座総支配人カルロ・フォンターナとムーティとのいさかいがきっかけであり、先んじる同年2月にはフォンターナが免職される結果となっていた。ムーティは投票に先立ち演奏会をキャンセルするが、フォンターナの支持者との絶え間ない亀裂のためにその他の公演も立ち行かない状態だった。同年4月2日にスカラ座を辞任した際、ムーティは職員からの「敵意」を辞任の理由として挙げていた。ムーティがベルルスコーニ首相と親しい間柄であるのに対し、フォンターナは左派に属する[3] ことから、この抗争自体芸術面でのそれというより高度に政治的なものだったとの見方もある。
フリー(客演)の期間
スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍。母国の音楽的復興を試みてケルビーニ管弦楽団を設立し、若手音楽家の育成に注力する。ウィーン・フィル、ケルビーニ管以外は年に1ヵ月程度の付き合いに留まっている。現在の客演先はフィルハーモニア管弦楽団、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、フランス国立管、ニューヨーク・フィル、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場だけだが、新規としてメトロポリタン歌劇場、ローマ歌劇場、シカゴ響(2回目)などの客演が決まっており、北京音楽祭や東京オペラの森音楽祭、PMF、モスクワ音楽祭、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭などイベントへの参加も多い。ルツェルン音楽祭への出演や協力も表明し、周囲を驚かせた。ローマ歌劇場に対しては定期的な客演と復興活動に参画することが発表された。生まれ故郷のナポリにあるサン・カルロ歌劇場の復興にも尽力し、母国の活性化に大きく貢献している。2010年にはフランクフルト州立歌劇場にも登場する。
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