マレンゴの戦い 背景

マレンゴの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/08 14:06 UTC 版)

背景

1798年にオーストリアは第二次対仏大同盟を結成してフランスへ宣戦し、1800年までに北イタリアの大部分を奪回した。1799年に第一統領に就任してフランスの独裁権を確立したボナパルトは、反撃のためにジュネーヴに軍を集結させた。1800年5月、ボナパルトは37,000の兵を率いてグラン・サン・ベルナール峠を越え、北イタリアへ進出した。ただこの山脈を超えるのに、雪崩を防止するため、大砲を使用したため、敵より砲の数が劣ることとなった。

その頃、オーストリア軍はジェノヴァに篭城するアンドレ・マッセナ指揮下のフランス軍部隊を攻囲中であった。ボナパルトはオーストリア軍の背後に出てミラノパヴィアを占領するが、ジェノヴァのフランス軍部隊は限界に達し6月4日に開城した。その後、オーストリア軍主力はトリノに集結した。

ボナパルトの機動によってオーストリア軍は退路を遮断される形となったが、司令官のメラスは東進を決意し、アレッサンドリアまで前進した。これに対してフランス軍は、オーストリア軍主力がトリノにとどまっていると誤認し、兵力を分散したまま西進した。こうして両軍は、6月14日、アレッサンドリア近郊のマレンゴにおいて遭遇した。

経過

6月14日早朝、オーストリア軍31,000はアレッサンドリアからマレンゴへ前進し、午前9時、マレンゴの村にいたクロード・ヴィクトール=ペランのフランス軍部隊を攻撃した。このときボナパルトは戦場から5キロ後方にいた。ボナパルトは攻撃がオーストリア軍主力によるものと認識し、ただちにジャン・ランヌジョアシャン・ミュラの部隊を増援に投入した。さらに別働隊へも伝令を送り、自身は午前11時に戦場へ到着した。

この時点で戦場のフランス軍は23,000しかおらず、数で勝るオーストリア軍の攻勢を支えるのに手一杯であった。午後2時にはマレンゴの村がオーストリア軍に奪われ、フランス軍は3キロ余りの後退を強いられた。メラスはこの時点で勝利を確信し、勝報をウィーンへ送っている。

午後5時、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーの別働隊5,000が来着し、兵力の上では互角となったフランス軍は逆襲に転じた。ドゼー自身がオーストリア軍の正面へ突撃し、ケレルマンの騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃した。この奇襲攻撃によってオーストリア軍は分断され、アレッサンドリアへ向けて敗走した。

戦いはフランス軍の逆転勝利に終わったが、激闘の最中、勝利に大きな貢献を果たしたドゼーは31歳で戦死した。

影響

6月15日にメラスは降伏し、北イタリアは再びフランスの手に落ちた。この時点ではまだ余力があったが、12月3日にジャン・ヴィクトル・マリー・モローの率いるフランスのライン川方面軍がオーストリア軍を破ったホーエンリンデンの戦いの結果、オーストリアは戦意を喪失し、リュネヴィルの和約に応じた。これにより第二次対仏大同盟は崩壊した。

ナポレオンにとってもこの戦いの勝利は極めて大きかった。ナポレオン敗北という誤報にフランスの内閣はフーシェや、タレーラン、ナポレオンの兄弟達はナポレオンの後釜を求めて苛烈な権力闘争をはじめており、ここで負けてしまえば、失脚がほぼ間違いなく、皇帝になるのは極めて難しいと思われるからだ。


  1. ^ a b 金澤誠「マレンゴの戦い」『日本大百科全書 22 ませ―もぬ』小学館、1988年12月1日 初版第三刷発行、ISBN 4-09-526022-X、190頁。
  2. ^ a b 松嶌明男『図説ナポレオン 政治と戦争 フランスの独裁者が描いた軌跡〈ふくろうの本〉』河出書房新社、2016年1月30日初版発行、ISBN 978-4-309-76236-4、126~128頁。


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