ヘンリー・ウォード・ビーチャー 個人生活

ヘンリー・ウォード・ビーチャー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 07:41 UTC 版)

個人生活

結婚

晩年のヘンリー・ウォード・ビーチャー

ビーチャーは5年間の婚約期間後の1837年にユーニス・ブラードと結婚した。その結婚は幸せなものではなかった。アップルゲイトが書いているように、「彼らが結婚して1年以内に、無視とあら探しという古典的な夫婦のサイクルが始まった。ビーチャーは長期間家を空けることが多かった[48]。この夫妻には8人の子供がうまれたが、そのうち4人を早世させてしまうという苦しみも味わった[40]

ビーチャーは女性との付き合いを楽しみ、インディアナ州にいた時代から既に婚外交渉を行っているという噂が広まっていた。その会派の若いメンバーと情事に及んでいると考えられていた[49]。1858年、新聞「ブルックリン・イーグル」が、ビーチャーは若い教会員と情事に及んでいると告発する記事を載せた。その女性は後に売春婦になった[49]。ビーチャーの庇護者で編集者であるヘンリー・ボウエンの妻は、その死の床で、夫にビーチャーと情事を持っていたと告白した。ボウエンはその生涯の間、そのことを隠していた[50]

ビーチャーの取り巻きの幾人かは、ビーチャーと著作家のエドナ・ディーン・プロクターとの情事があったと報告している。ビーチャーはその説教の本を作るためにプロクターと協力していた。この二人の最初の出会いが議論の対象となっている。ビーチャーは友人にそれが合意に基づいていたと告げたとされるが、プロクターはヘンリー・ボウエンに、ビーチャーが強姦したと告げたとされている。最初の状況はともかく、ビーチャーとプロクターは1年間以上も情事を続けていたとされている[51]。歴史家のバリー・ワースに拠れば、「『ビーチャーは毎週日曜日の夜に、7人ないし8人の愛人に説教していた』というのはありきたりのゴシップだ」と言っていた[52]

ビーチャー=ティルトン・スキャンダル事件

ビーチャーは大いに新聞沙汰となったスキャンダルの中で、友人の妻、エリザベス・ティルトンと姦通した容疑で告発され裁判に掛けられた。1870年、エリザベスは夫のセオドア・ティルトンにビーチャーと関係を持ったことを告白した[53]。セオドアがエリザベス・キャディ・スタントンに妻の告白内容を伝えたときに、その告発が公になった。スタントンは仲間である女性の権利運動指導者のビクトリア・ウッドハル英語版やイザベラ・ビーチャー・フッカーに繰り返しその話をした[54]

ビーチャーは、ウッドハルが自由恋愛を提唱していると、公然と非難していた。ウッドハルは、ビーチャーの偽善と見たものに激怒し、自分の新聞である「ウッドハル&クラフリンズ・ウィークリー」の1872年11月2日号に『ビーチャー=ティルトン・スキャンダル事件』と題する記事を掲載した。この記事では、アメリカでも最もよく知られた牧師がその説教壇から非難している自由恋愛の原理を密かに実行している話を、詳細に伝えていた。この記事は全国的な大騒ぎを起こした。ビーチャーの要請により、ウッドハルはニューヨーク市で逮捕され、郵便によって淫らな材料を送った罪で収監された[55]。このスキャンダルはビーチャーの兄弟姉妹の間も分けた。ハリエット達はヘンリーを支持し、イザベラは公然とウッドハルを支持した[56]

その後の裁判と審問では、歴史家ウォルター・A・マクドゥガルの言葉で「新聞の第一面からレコンストラクションを2年半追い出した」ことになり、「アメリカ史の中で彼も彼女も最もセンセーショナルだと言った」ものになった[57]。最初の裁判はウッドハルに対してであり、彼女は事実上釈放された[57]。プリマス教会は審問委員会を開いてビーチャーの潔白を証明したが、1875年にセオドア・ティルトンを破門にした[58]。ティルトンはビーチャーを姦通罪で民事裁判所に告訴した。その裁判は1875年1月に始まり、7月に結審して、陪審は6日間の検討を行ったが評決を出すことができなかった[59]。ビーチャーは会衆派教会に自分の無罪を証明するための最終審理を要求し、教会がその通りにした[60]

スタントンはビーチャーが繰り返し無罪とされたことに怒り、このスキャンダルを「女性に対するホロコースト」だと言った[60]フランスの著作家ジョルジュ・サンドはこの情事に関する小説を企画したが、それが書かれる前の翌年に死去した[61]


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