パベル・ネドベド 経歴

パベル・ネドベド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/04 09:21 UTC 版)

経歴

生い立ち

チェコスロバキアの首都プラハで生まれスカルナで育った。父バツラフは、当時チェコスロバキア2部リーグに所属していたヘプのサッカー選手で、クラブの練習が終わると息子のパベルにサッカーを教えていた。

スパルタ・プラハ時代

14歳となった1986年からスコダ・プルゼンという地元のクラブに加入。デュクラ・プラハというクラブを経てスパルタ・プラハに加入。当初はチームに馴染めず、監督のカロル・ドビアシュからも低い評価を受けていたが、周囲の視線を気にせず着実に力をつけたネドベドは2シーズン目には主力としてリーグ連覇に貢献。更に1994年6月のアイルランド戦で代表デビューを果たし、EURO '96にも出場。チームの顔は同僚のカレル・ポボルスキーだったが、着実なプレーで欧州におけるネドベドの評価を高めた。

ラツィオ時代

EURO '96での活躍が認められ、1996-97シーズンからセリエAラツィオに移籍。当時のラツィオは優勝を狙うべく、毎年活発な選手補強を行っていた。1997-98シーズンにはリーグ戦11得点を挙げた。1998-99シーズン、UEFAカップウィナーズカップ決勝のマジョルカ戦では決勝点を挙げてチームにタイトルをもたらした[2]。1999-2000シーズンにはリーグ優勝に貢献した。2000年末頃にはマンチェスター・ユナイテッドが獲得を試みていたが、エリクソン監督がオファーを拒否した[3]

2000-01シーズン終了後、クラブ側は長期の契約延長をネドベドに提示し、彼もこれを受け入れ合意に至ったが、会長のセルジョ・クラニョッティがオーナーを務める大手食品会社チリオの業績悪化の影響で、チームは急きょ資金調達と高額な年俸を支払っている主力選手の放出を余儀なくされた。ネドベドも例外ではなく、休暇から戻ってきたネドベドは急転直下、ユヴェントスへの移籍を言い渡された。この一連の流れはチームの顔であったアレッサンドロ・ネスタを手放す程の主力組の大放出劇であった。

ユヴェントス時代

ユベントスでプレーするネドベド(2008年)
左腕にはキャプテンマークが巻いてある

2001-02シーズン序盤ユーベは低迷しており、ネドベド自体もフィットしていないと評され、優勝争いからも脱落すると思われた。しかし、シーズン終盤を迎えるとこのシーズン最強と評されたインテルを抜き去ってスクデットを獲得。決してネドベドの貢献が大きかったとは言えないが、この勢いをベースにした手ごたえは翌シーズンに発揮されることになった。

2002-03シーズン、ユーベの大黒柱と化したネドベドは、故障者が続出して危機的なチーム状況の中ほとんどの試合にフル出場し、シーズン終盤には「バロンドール間違いなし」と批評家から評価を受ける程の活躍ぶりを見せた。チームも2年連続のスクデットを獲得した。そのシーズンUEFAチャンピオンズリーグでは、ユヴェントスは決勝に進むも、ネドベドは準決勝のレアル・マドリード戦でイエローカードをもらい累積2枚目となったため、決勝には出場することが出来なかった。なお、ユヴェントスはPK戦の末にACミランに敗れ優勝を逃した[4]

2006-07シーズン、ユーベは不正疑惑の為にセリエB降格の処分が下され、主力だったカンナヴァロテュラムらが次々とユヴェントスを去り、自らにも多くのクラブからオファーがきた。シーズン終了前は引退も口にしていたネドベドだったがデル・ピエロブッフォンに続き、「世話になったクラブに恩返しをしようと思う」と現役続行と残留を表明、チームを1シーズンで再昇格させる原動力となる活躍を見せた。

2007-08シーズン、新加入のチアゴにレギュラーの座を脅かされていたが、35歳という年齢ながらレギュラーを死守した。

2009年2月25日、2008-09シーズンをもって現役を引退することを発表した。

ユヴェントスでスポーツディレクターを務めていたが、2015年10月、ユヴェントスの副会長に選ばれた。


  1. ^ Pavel Nedvěd - STATISTIKY REPREZENTANTŮ”. FOTBAL.CZ. 2013年11月23日閲覧。
  2. ^ CUP WINNERS CUP FINAL 1998 99”. 2023年7月18日閲覧。
  3. ^ Lazio deny Nedved deal”. BBC. 2023年7月18日閲覧。
  4. ^ 金子義仁 『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』 フットワーク出版社、2004年、88頁-91頁。
  5. ^ 金子義仁『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版社、2004年、88-89頁。
  6. ^ 金子義仁『2005~2006ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版社、2004年、88頁。
  7. ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、114ページ、ISBN 4-591-09115-5
  8. ^ サネッティ:「最も厄介なのはネドヴェドだった」 Goal.com 2011年1月15日






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