ダッハウ強制収容所 ダッハウにおけるガス室について

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ダッハウ強制収容所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/14 19:13 UTC 版)

ダッハウにおけるガス室について

終戦直後の1946年のニュルンベルク裁判の公判では、連合軍によって構成された検察側はダッハウ収容所ではガス室による大量虐殺があったと主張していた[32]。 しかし、時間が過ぎるにつれて、ガス室が本当に稼働していたのか疑問視されるようになり、1980年代のダッハウ博物館の公式の説明文章では、「ガス室は完成しておらず、ガス室として使用された事はない」と書かれていた[33][34]ようだが、ダッハウ強制収容所記念館の公式サイトには、「ある当時の目撃者の証言によれば、1944年に毒ガスで殺された囚人もいたという」と記載されており[35]、ガス処刑があった可能性を否定しているわけではない

但し、同サイトでは同時に「毒ガスによる大量殺戮は行われなかった」と述べて[36]、ガス室による大量虐殺については明確に否定している。

歴史修正主義者は、ダッハウ収容所のガス室は、収容所を占領したアメリカ軍による捏造ではないか?という疑いを持っている[37][38]。しかし、ダッハウのガス室については、収容所の医師であったジークムント・ラッシャー博士から親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーに送られた手紙(1942年8月9日付)が残されており、そこには以下のように記述されていた。

「ご存知のように、KLダッハウにもリンツと同じ施設が建設されています。「障害者輸送」はいずれにせよある部屋に送られるのですから、この部屋で、いずれにせよその部屋に送られることになる人たちに対して、さまざまな戦争ガスの影響をテストすることはできないのでしょうか。今までは動物実験や製造時の事故の報告しかなかったのですが、これからは、このようなガスの製造が可能になります。この段落のため、「秘密事項」として手紙を送ります」[39]

従って、ダッハウ収容所にこの手紙で建設が示されている施設はいわゆるバラックXと呼ばれる建屋にあるガス室とされる部屋以外には存在しないことから、その施設こそがラッシャーが言及している施設であると考えられる。また、リンツと同じ施設とは、リンツにあったハルトハイム療養所の安楽死作戦(T4作戦)施設であり、そこにはガス室があったことが知られているため、同様の目的を持ったガス室であると考えざるを得ない。

また、ダッハウ収容所の関係者を裁いたダッハウ裁判(英: Dachau trials)では、尋問で被疑者に対して激しい拷問が行われていた。と指摘されており、これがガス室による大量虐殺という誤認を生んだと考える[40][41]説もある。


注釈

  1. ^ 最も有名な人にHans Litten、Fred Rabinowitz(別名 Fred Roberts)、Stefan Starzynski、作曲家Blaž Arnič、Alfred Gruenebaum(アメリカ合衆国の著名な産婦人科医の父)、Amos Grunebaumがいる。
  2. ^ ミュンヘン警察長官ヒムラーの記者会見は次の通り。「きたる水曜日に5,000人を収容できる最初の強制収容所がダッハウに開設される運びとなった。共産主義者の官吏・マルクス主義者の官吏・国旗団に所属する者など国家治安を危機に陥れる者がここに集められることになるだろう。こうした連中は釈放された途端に扇動と運動の組織化を図ろうとするから釈放するわけにはいかない。しかし長期にわたって刑務所の重荷にするわけにもいかない。したがって強制収容所へ収容することは当然の措置である[9][10]。」
  3. ^ ヴァイターはドイツが降伏した同年5月2日、逃亡先のチロルで自殺している。
  4. ^ 特に有名なのが、カール・ライスナー(収容中に司祭叙階を受け、1996年ヨハネ・パウロ2世から列福された)とマルティン・ニーメラー(プロテスタント神学者でナチスへの抵抗運動指導者)である。
  5. ^ 出典によると、19人中16人の名前は、ファニ・バウル、レオポルディン・ビッタマン、エルネスティン・ブレナ、アンナ・ブック、ロザ・ドラシコ、マリア・エダ、ロザ・グラスマン、ベティ・ハネシャレガ、ルート・エルフリーデ・ヒルドナ、ヨゼファ・ケラー、ベルタ・キンプリンガー、リーゼロッテ・クラウダット、テレジア・コップ、ロザリー・ラインベック、テア・ミースルである。女性監視員はアウスブルク・ミッヒェルヴェルケ支所、ブルガウ支所、カウフェリンク支所、ムールドルフ支所、ミュンヘン・アクファ・カメラ・ヴェルケ支所にも勤務していた。1945年4月半ばにカウフェリンク、アウクスブルク、ミュンヘンにあった多くの女性用支所が閉鎖され、SSの女性隊員は、ダッハウに配置された。SS女性隊員は解放前に戦後の身の安全のために囚人に銃を引き渡したという。

出典

  1. ^ a b c d e 長谷川、63p
  2. ^ a b 高橋、35p
  3. ^ 長谷川、62p
  4. ^ 高橋、26p
  5. ^ http://www.fatherryan.org/holocaust/dachau/subindex.htm ダッハウ - 最初の強制収容所
  6. ^ That Was Dachau 1933 - 1945 by Stanislav Zámečník Page 377 and 379
  7. ^ リュビー 1998, p. 102.
  8. ^ a b リュビー 1998, p. 92.
  9. ^ リュビー 1998, pp. 92–93.
  10. ^ The Mazal Library”. 2012年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月21日閲覧。
  11. ^ a b c 長谷川、64p
  12. ^ a b 高橋、36p
  13. ^ a b c d e 長谷川、66p
  14. ^ 高橋、38p
  15. ^ 高橋、45p
  16. ^ 長谷川、81p
  17. ^ 高橋、39-40p
  18. ^ リュビー 1998, p. 94.
  19. ^ リュビー 1998, p. 95.
  20. ^ a b リュビー 1998, p. 69.
  21. ^ a b フォルカー(2022年)、36-37頁。
  22. ^ フォルカー(2022年)、38頁。
  23. ^ 2nd Lt. Heinrich Wicker, the man who surrendered the Dachau concentration camp, 29 April 1945”. Scrapbookpages.com. 2018年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月21日閲覧。
  24. ^ a b c Gleb Alexandrovitch Rahr - Prisoner R (Russian) -- Pascha (Easter) in Dachau”. OrthodoxyToday.org. 2019年2月21日閲覧。
  25. ^ Dachau 1945: The Souls of All Are Aflame”. Self-Ruled Antiochian Orthodox Christian Archdiocese of North America. 2014年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月21日閲覧。
  26. ^ Dachau Concentration Camp Memorial Site (pedagogical information)”. 2012年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月21日閲覧。(ドイツ語)
  27. ^ Sven Felix Kellerhoff (2002年10月21日23:33). “Neue Museumskonzepte für die Konzentrationslager” (German). WELT ONLINE (Axel Springer AG). http://www.welt.de/print-welt/article417276/Neue_Museumskonzepte_fuer_die_Konzentrationslager.html 2007年3月21日閲覧. ". . . die SS-Kasernen neben dem KZ Dachau wurden zuerst (bis 1974) von der US-Armee bezogen. Seither nutzt sie die VI. Bayerische Bereitschaftspolizei. (. . . the SS barracks adjacent to the Dachau concentration camp were at first occupied by the US Army (until 1974) . Since then they have been used by the Sixth Rapid Response Unit of the Bavarian Police.)" 
  28. ^ Dachau”. The Holocaust Encyclopedia. United States Holocaust Memorial Museum. 2019年2月21日閲覧。
  29. ^ ダニエル・パトリック・ブラウン著THE CAMP WOMEN, The Female Auxiliaries who Assisted the SS in Running the Nazi Concentration Camp System[要文献特定詳細情報]
  30. ^ リュビー 1998, p. 99.
  31. ^ リュビー 1998, pp. 102–103.
  32. ^ Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P71
  33. ^ Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P79
  34. ^ 加藤一郎「第二次大戦に関する歴史的修正主義の現況 (2) : ホロコースト論争(ダッハウ収容所のケース)」『教育学部紀要』第32巻、文教大学、1998年12月、92頁、CRID 1050282676658720384ISSN 0388-2144 
  35. ^ KZ Gedenkstätte Dachau
  36. ^ KZ Gedenkstätte Dachau
  37. ^ Lectures on the Holocaust Germar Rudolf P79-89
  38. ^ Probing the Holocaust
  39. ^ https://holocaustcontroversies.blogspot.com/2017/05/rebutting-twitter-denial-most-popular.html#scratchmarks
  40. ^ Innocent in Dachau
  41. ^ Dachau’s 800-Pound Kangaroo
  42. ^ フランシスコラルゴカバレロ-ブリタニカオンライン”. ブリタニカ百科事典. 2023年1月9日閲覧。


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