ジョージ・マーティン
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人物
1926年1月3日、マーティンはロンドンのハイベリーで誕生する。6歳で音楽に興味を持ち、8歳からピアノ指導を受ける。しかし母親とピアノ講師と折り合いが悪く、その後は独学でピアノを学んだ。第二次世界大戦が始まると、家族と共にウェリン・ガーデン・シティに避難し、現地のグラマースクールで演劇やダンスを学んだ。1943年にイギリス海軍へ入隊し、航空隊に配属される。一度も戦闘に参加しないまま1947年に除隊すると、退役軍人補償金を得てギルドホール音楽演劇学校へ入学した。ギルドホール音楽演劇学校ではクラシック音楽の基礎を学びながら、オーボエとピアノを専攻。同校在学中の1948年に最初の妻シーナ・チザムと結婚している(2人の子を授かるもその後離婚。1966年に再婚し2番目の妻との間にも2子をもうける)。オーボエ奏者として活動した後、BBC音楽部門勤務を経て、1950年に就職したEMIアビー・ロード・スタジオで多くの録音に携わる[3]。
1955年にEMIパーロフォンのマネージャーとなり、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品などコメディ色の強いレコードの制作を多く担当して実績を積んだり『戦場にかける橋』のパロディ作品を作った際、収録曲「クワイ河のマーチ」が上層部から苦情を受け、既に録音し終えていた曲中の「クワイ(Kwai)」というフレーズから「K」の部分だけ削除して「ワイ河のマーチ」に作り直したという逸話がある。
1962年にデッカ・レコードに不合格となったビートルズを採用し、共同作業者として大成功を収め、1965年にはEMIを退職した(ビートルズのプロデュースは継続する)。その後もジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリック、ポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がける。1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、マーティンにとってはイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となった。
1998年、ビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズと共にプロデュースし、自分の名義で発表。ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオン、ヴァネッサ・メイ、BONNIE PINK、フィル・コリンズらが参加した。
1999年、聴力の衰えを理由にプロデューサー・エンジニアを引退。その後は講演会でのパネル活動を主軸にする。
生前最後のプロデュースは2006年発売の息子のジャイルズと共同で行われたビートルズのアルバム「LOVE」であった。
2016年3月8日、コールズヒルの自宅にて死去。90歳没[4][2]。
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