ジョージ・マーティン 人物

ジョージ・マーティン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 18:12 UTC 版)

人物

1926年1月3日、マーティンはロンドンのハイベリーで誕生する。6歳で音楽に興味を持ち、8歳からピアノ指導を受ける。しかし母親とピアノ講師と折り合いが悪く、その後は独学でピアノを学んだ。第二次世界大戦が始まると、家族と共にウェリン・ガーデン・シティに避難し、現地のグラマースクールで演劇やダンスを学んだ。1943年にイギリス海軍へ入隊し、航空隊に配属される。一度も戦闘に参加しないまま1947年に除隊すると、退役軍人補償金を得てギルドホール音楽演劇学校へ入学した。ギルドホール音楽演劇学校ではクラシック音楽の基礎を学びながら、オーボエとピアノを専攻。同校在学中の1948年に最初の妻シーナ・チザムと結婚している(2人の子を授かるもその後離婚。1966年に再婚し2番目の妻との間にも2子をもうける)。オーボエ奏者として活動した後、BBC音楽部門勤務を経て、1950年に就職したEMIアビー・ロード・スタジオで多くの録音に携わる[3]

1955年にEMIパーロフォンのマネージャーとなり、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品などコメディ色の強いレコードの制作を多く担当して実績を積んだり『戦場にかける橋』のパロディ作品を作った際、収録曲「クワイ河のマーチ」が上層部から苦情を受け、既に録音し終えていた曲中の「クワイ(Kwai)」というフレーズから「K」の部分だけ削除して「ワイ河のマーチ」に作り直したという逸話がある。

1962年にデッカ・レコードに不合格となったビートルズを採用し、共同作業者として大成功を収め、1965年にはEMIを退職した(ビートルズのプロデュースは継続する)。その後もジェフ・ベックアメリカチープ・トリックポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がける。1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、マーティンにとってはイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となった。

1998年、ビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズと共にプロデュースし、自分の名義で発表。ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオンヴァネッサ・メイBONNIE PINKフィル・コリンズらが参加した。

1999年、聴力の衰えを理由にプロデューサー・エンジニアを引退。その後は講演会でのパネル活動を主軸にする。

生前最後のプロデュースは2006年発売の息子のジャイルズと共同で行われたビートルズのアルバム「LOVE」であった。

2016年3月8日、コールズヒルの自宅にて死去。90歳没[4][2]


  1. ^ a b c d e f g h i Eder, Bruce. George Martin | Biography & History - オールミュージック. 2020年6月30日閲覧。
  2. ^ a b c 「『5人目のビートルズ』死去――ジョージ・マーティンさん90歳」(朝日新聞、2016年3月10日号・39面)
  3. ^ a b 日経BP刊『日経エンタテインメント!』1998年7月号より。
  4. ^ 「5人目のビートルズ」ジョージ・マーティンさん死去 90歳”. スポニチアネックス (2016年3月9日). 2016年3月9日閲覧。






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