シネイド・オコナー 略歴

シネイド・オコナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 07:08 UTC 版)

略歴

ダブリン生まれ。 両親の不仲と離別、カトリックの厳格な生活に対する反発によってすさんだ少女時代を過ごしたことは、その後のオコナーの公私の活動に大きな影響を与えることになった。 母親の事故死の後、ロンドンに移って音楽活動を続けた。 1987年のファースト・アルバム『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』 (The Lion and the Cobra) は穏やかさと攻撃性とが去来する作風の曲が特徴である。 こうしたアンビバレント性はスキンヘッドという彼女のスタイルにも、カトリックに対しての愛憎の念が入り混じる言動にも表れている。 ちなみに「the lion and the cobra」は旧約聖書詩篇に現れる言葉で悪魔の隠喩である。

1990年のセカンド・アルバム『蒼い囁き』 (I Do Not Want What I Haven't Got、1990年) からシングル・カットされた、プリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」が世界中で大ヒットし、アルバムは英米で1位を記録した。デビュー当時からの過激な言動も相変わらずであり、例えばアメリカのツアー会場で習慣となっていたコンサート前のアメリカ国歌を拒否して騒がれた。とりわけ1992年10月『サタデー・ナイト・ライブ』の生放送中に「真の敵」だとしてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を破ったことにより大きな物議を醸し、直後のボブ・ディラントリビュート・コンサートに参加した際には大ブーイングを浴びながら一人だけボブ・マーリーの「War」を歌うことになった[1][2]

その後は過激さは影を潜め、さらに1999年にはキリスト教系の新興宗教団体である独立カトリック教会の「女性司祭」となって人々を驚かせた。発表作もレゲエやアイリッシュ・トラディショナル、スタンダードのカヴァーなど伝統的な色彩が濃くなっている。2003年に一旦引退を発表し音楽活動を休止していたが、2005年にレゲエのカヴァー・アルバム『スロウ・ダウン・ユア・アームズ』 (Throw Down Your Arms) で復帰した。

2018年、イスラム教への改宗を公表。「シュハダ・サダカット (Shuhada' Sadaqat)」と改名した[3]

2023年7月26日、長年にわたるメンタルヘルスとの闘いの末、死去[4]。56歳没。

ロンドン警察庁は「不審死として扱っていない」と発表したが、医学的な死因解明のために検視解剖が指示された[5]。2024年1月9日、担当の検死官はオコナーの死が自然死であったとの見解を表明した[6]








固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シネイド・オコナー」の関連用語

シネイド・オコナーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シネイド・オコナーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのシネイド・オコナー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS