アレクサンダー大王の戦い アレクサンダー大王の戦いの概要

アレクサンダー大王の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/26 23:59 UTC 版)

『アレクサンダー大王の戦い』
ドイツ語: Alexanderschlacht
作者アルブレヒト・アルトドルファー
製作年1529
種類油彩
寸法158.4 cm × 120.3 cm (62.4 in × 47.4 in)
所蔵アルテ・ピナコテークミュンヘン

ヴィルヘルム4世は『アレクサンダー大王の戦い』を歴史上に残る傑作として彼の住むミュンヘンに展示するように義務付けた。現代の評論家はこの絵をヨーロッパ諸国とオスマン帝国との戦争をアレクサンダーの英雄的な勝利と結びつけたものだと考えてられている。特に第一次ウィーン包囲でのスレイマンの敗北はアルトドルファーに大きな着想を与えた。宗教的な背景は特にこの異様な空に描かれており、これはダニエル書の予言と差し迫った黙示録に触発されたと推測されている。ヴィルヘルム4世の所有物であった『アレクサンダー大王の戦い』と他の4つの作品は現在ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに展示されている。

題材

紀元前100年に描かれたアレクサンドロスのモザイク画の中でのアレクサンドロス3世

アレクサンドロス3世は紀元前336年から亡くなるまでの間、古代ギリシャのマケドニアの王であった。彼は歴史上最も卓越した戦術家、戦略家とみなされており[1]、戦闘に負けたことがないと推測されている[2][3]。彼の軍事的リーダーシップとカリスマ性は有名で、彼は常に戦場の最前線で軍を率いていた。ペルシャ帝国を征服し、ギリシャとエジプトとバビロニアの同化政策を進め、彼は古代で最も大きな帝国を築き上げ、ヘレニズムはヨーロッパ、北アフリカに広まった。

ギリシャの情勢が平穏になりマケドニア軍の統率が安定した334年の春に、アレクサンドロス3世はペルシャ帝国への遠征を開始した。最初の数ヶ月の間はダレイオスはアレクサンドロスの40000人の軍がペルシャへ侵攻している事を無視していた。5月のグラニコス川の戦いで初めてペルシャ帝国はマケドニアの侵攻に対して抵抗したが、結果はアレクサンダーの勝利に終わった。翌年アレクサンダーは海岸沿いのアナトリア半島に進出し、各都市のサトラップを降伏させた。さらに彼は内陸にも進出し、北東のフリギアを占領した後、キルキアへと転進した。10月にキルキア門を通った後、タルススでアレクサンドロスの発熱のため、進軍は遅れる事になった。その間にダレイオスは100,000の軍を招集し、(一部の古文書では数字が誇張されて600,000人と書かれている[4]ハタイ県のアマヌス山脈の東側でダレイオス自ら軍を率いた。11月の始めに、アレクサンドロスはマルスワンからイッソス経由でイッソス湾へと進軍し、ペルシャ軍と不意に遭遇した。この時、ダレイオスはアレクサンドロスの後方にいたので、決定的に有利な地点にいた。ダレイオスはアレクサンドロスの撤退を妨害し、イッソスに築かれた補給線を断つ事ができた。アレクサンドロスはペルシャ軍の位置を把握して初めて、ミリアドに野営する事ができた。ミリアドはイスカンデルン湾の南東の海岸の港であった。彼は直ちにイッソスの南のピナルス川に引き返し、ダレイオスの軍勢が川の北側に集結している事を確認した。この時イッソスの戦いが勃発した。

イッソスの戦いでの開戦前の陣形。ピナルス川を挟み、両陣営が対峙している。この地はイッソスから11km南の地点にある。両軍の騎兵がイッソス湾に集中している事がわかる。アレクサンダーは右翼から自ら騎兵を用いてペルシャの小丘の防御を崩すことに専念した。

ダレイオスは最初、防護的な反応をとった。彼はマケドニア軍が川を渡る事を防ごうと棒を北側の川辺に突き刺した。中央の前衛はギリシャ人傭兵とペルシャ帝国の親衛隊によって構成されていた。これはペルシャの王にとっては常であったが、伝令を効率的に送って、巨大なペルシャ軍を指揮するために、ダレイオスは中央の真ん中に陣取った[5]。アレクサンドロスが渡河し、右翼から攻撃を仕掛けてくる事が予想されたので、ペルシャの軽装歩兵の集団は直ちに山の麓の小丘に送られた。ペルシャの右翼には騎兵の多くが置かれた[6]

アレクサンドロスは最初慎重に進軍を開始した。アレクサンドロスは右翼にヘタイロイを置き、ペルシャ右翼の騎兵の大軍に対抗するため、テッサリアの騎兵を左翼へと急行させた[7]。アレクサンドロスは右翼の小丘の重要性を認識しており、右翼を起点に軽装歩兵、弓兵、騎兵を置き、ダレイオスの防御を崩そうとした。この戦略が功を奏し、戦死しなかったペルシャ兵は山の中に逃げ込まざるを得なかった。

敵の弓の射程圏内に入ったとき、アレクサンドロスは命令を変更した[7][8]ヘタルロイを切り込み部隊として攻撃を命じ、ペルシャの左翼を速やかに突破するよう命じた。パルメニオン率いるマケドニア軍の左翼は[9]、ペルシャ騎兵の攻撃により後退していた。マケドニアの中央のファランクスは川を渡り、ダレイオスの前面を守備するギリシャ人傭兵と交戦を開始した。ヘタイロイがペルシャの左翼を押し返した時、アレクサンドロスとマケドニア軍の間に隙間が生じたため、ダレイオスにこの隙間を利用するチャンスがあった。しかしダレイオスは左翼が戦闘不能になり、脅威でなくなったことに満足し、その間にアレクサンドロスはヘタイロイをペルシャの中央を攻撃するために移動させて、危機的な状況を解消した。ペルシャ軍はこの攻撃に耐えられず、ペルシャの前衛は川辺から撤退せざるを得なくなり、マケドニアのファランクスに更なる前進を許し、ペルシャの左翼からの圧力を取り除いた[8]

アレクサンドロスのヘタイロイによる攻撃は止まることがないと思い知らされたため、ダレイオスとペルシャ軍は逃亡し始めた。多くのペルシャ兵はマケドニアの突撃により命を落とし、遺体は逃亡する兵士により踏み潰されるか、馬により潰された[10]。一部の兵士はエジプト方面に落ちぶれたが、多くの兵士は北に逃れ、ダレイオスの元で再編成された[11]。日が落ちるまで、追撃は続けられ、最終的に追撃を開始してから約20kmほど進んでいた。アレクサンドロスは軍を再び呼び戻し、遺体を埋葬した。ダレイオスの家族はペルシャのキャンプに置き去りにされており、アレクサンダーは彼女たちを歓待し、身の安全を保証したと記録されている[11][12]。ダレイオスの乗っていた馬は彼の弓と盾と共に溝に捨てられているところを発見された[11]

古代の文献ではイッソスの戦いで生じた損害はそれぞれ異なっている。シケリアのディオドロスプルタルコスによれば、ペルシャの損害はおよそ10万人に対し、クィントゥス・ルーファスによればマケドニアの損害は450名である[13]。いずれの場合にせよ、ペルシャの損害は戦場を離脱できた兵を上回っていると推測される[14]。アレクサンドロスに従えたプトレマイオスはイッソスの戦いでの追撃中、どれだけのマケドニアの兵士が山峡を超えたかを数えていた[13][15]

マケドニアのペルシャ侵攻は紀元前300年まで続き、ついにダレイオスは部下に殺され、アレクサンドロスはペルシャ帝国の王を自称するようになった[16]。アレクサンドロスが亡くなったのは、紀元前323年に丁度インドへの遠征から帰って来た時であった。アレクサンドロスの死因については現在も論争が続いている[17][18]

背景

聖ジョージと竜(1510年)

『アレクサンダー大王の戦い』以前の作品

アルブレヒト・アルトドルファーは西洋の風景画の開祖としてみなされている[19]。彼は画家、エッチャー、建築家、彫刻士で、ドナウ芸術学校の校長であった。聖ジョージと竜(1510年)とアレゴリー(1531年)のような絵画が証明しているように、アルトドルファーの多くの作品はスプロールした風景の中に人を小さく描かれている事が特徴である[20]。『アレクサンダー大王の戦い』は彼の絵画の典型的な例である。聖ジョージと竜について言及した歴史家のマーク・ロスキルは次のように述べている。”アルトドルファーの作品の風景にある様々な装飾品はその場所の人里離れ、人が寄り付かない場所である事を明らかにさせ、作品をより精巧なものにしている[21]。”アルトドルファーはアルプス山脈やドナウ川を旅したことがあったが[22]、これらの地形の特徴は歩道橋のある風景(1516年)やドナウのレイネンブルグ(1522年-1525年)なども含め、彼の作品にはほとんど描かれていない。これらの作品は古代も含め初めての”純”風景画である[23]。現代の様式とは対照的に、アルトドルファーの多くの風景画は縦に描かれている。この縦書きの風景は当時としては革新的であり、アルトドルファーの同時代のフランドル人であるヨアヒム・パティニールとその弟子に受け継がれている[24]

イッソスの戦いのモザイク絵(ナポリ国立考古学博物館)

太古のイッソスの戦いの作品

この作品以前にイッソスの戦いを描いたものはわずかしかない。フィロクセネスのエレトリアによって描かれたフレスコ絵画の『イッソスの戦い』が最初の作品であると言われている。この絵は紀元前310年にカッサンドロス(紀元前350年-紀元前)のために書かれた。カッサンドロスはアレクサンドロス大王の最も有力な後継者であった[25]

アレクサンダーとダレイオスは無数の兵士に囲まれながら、お互いを自らの槍の射程に収めている様子が描かれている。


  1. ^ Corvisier; Childs, p. 21
  2. ^ Heckel; Yardley, p. 299
  3. ^ Polelle, p. 75
  4. ^ Romm; Mensch, p. 48
  5. ^ Warry, p. 33
  6. ^ Savill, p. 33
  7. ^ a b Savill, p. 34
  8. ^ a b Warry, p. 35
  9. ^ Warry, p. 34
  10. ^ Warry, p. 36
  11. ^ a b c Savill, p. 35
  12. ^ Warry, pp. 37–38
  13. ^ a b De Sélincourt, p. 121
  14. ^ Warry, p. 37
  15. ^ Romm; Mensch, p. 54
  16. ^ Sacks; Murray; Bunson, p. 17
  17. ^ Heckel, p. 84
  18. ^ "Alexander the Great and West Nile Virus Encephalitis (Replies)". CDC. 2004.
  19. ^ Keane, p. 165
  20. ^ Clark, p. 38
  21. ^ Roskill, p. 65
  22. ^ Earls, p. 81
  23. ^ Wood, p. 9
  24. ^ Wood, p. 47
  25. ^ Kleiner 2009, p. 142
  26. ^ "The Battle of Issus". Alte Pinakothek. Retrieved 10 November 2009.
  27. ^ a b Hagen; Hagen, p. 133
  28. ^ Wood, p. 201
  29. ^ a b Kleiner 2008, p. 510
  30. ^ a b c Hagen; Hagen, p. 130
  31. ^ a b Hagen; Hagen, p. 131
  32. ^ a b c Hagen; Hagen, p. 132
  33. ^ Clark, p. 41
  34. ^ Wood, pp. 21–22
  35. ^ a b c Janson; Janson, p. 544
  36. ^ Davis, p. 91
  37. ^ Hagen; Hagen, p. 128
  38. ^ Kleiner 2008, p. 510
  39. ^ Clark, p. 40
  40. ^ a b Wood, p. 22
  41. ^ Alte Pinakothek, pp. 24–29
  42. ^ Svanberg, pp. 70–86
  43. ^ Clark, p. 36
  44. ^ Cuneo, p. 186
  45. ^ a b Davis, pp. 91–92


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