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土光敏夫

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 14:35 UTC 版)

土光 敏夫(どこう としお、1896年明治29年)9月15日 - 1988年昭和63年)8月4日)は、昭和時代の日本エンジニア実業家位階勲等従二位勲一等勲一等旭日桐花大綬章勲一等旭日大綬章勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民[1]岡山市名誉市民[2]


注釈

  1. ^ 受験に何度も失敗しているが父親の商売を手助けし、勉強が疎かになったためと言われている。最初に挑戦したのは、県立岡山中学 のちの岡山 1 中、現在の県立岡山朝日高校。定員140人のところ受験者数は1000人で結果は不合格だったので高等小学校に進学。翌年、再び受験したが不合格。仕方なく、高等小学二年に進学。その後また受験しその時も合格しなかったので旧制中学受験だけで合計三回の失敗。県立学校受験を失敗した敏夫はやむなく、岡山市内の私立関西中学(現在の関西高等学校)に進学。
  2. ^ 『土光被夫の生い立ちと素顔』によると、敏夫は代用教員の期間中、さらに児童から来年岡山中学を受験したいので勉強を教えてほしいと頼まれ、二つ返事で「火曜日と金曜日が宿直なので、その日に来るように」といった。児童は早速訪れた。それから村で評判となり、次の週から、岡山中学と関西中学の受験を志望する児童が続々「自分にも教えてほしい」と現れた。学校の教室を使って夕方から、算数と国語、理科を教え「土光塾」と貸す。当初は二時間ほどの「授業」だったが、時には三時間程度となる日もあったが自らも受験生で、東京高等工業の受験のための勉強をしなければならない。しかし、「勉強したい」という児童の思いに共感し、教えた。その成果が実ったのか、大野小学校では、岡山中学に二人、関西中学に二人が合格。かつてない成果を挙げた。子どもの親たちは、土光家にお礼として農作物などをもってきた。しかし一切、それらを受け取らなかった。「教師が児童に教えるのは当然です。僕自身が受験生でなかったら、もっと時間を割くことができたのに済みません」と、逆に謝ったという。
  3. ^ 敏夫は関西中学を卒業、東京高等工業(現在の東京工業大学)に挑戦したが当時は中学を卒業した場合、三つのコースがあった。1つは中学卒業後に高校から帝国大学へ進学する コース。その場合は六年間の学生生活となる。二番目は、東京高等工業のような高等専門学校に進学することでそのケースは三年間ですむ。三つ目は陸軍士官学校や海軍兵学校に進むこと。陸軍士官学校などへ進むことについては、極度の近視のため、あきらめた。一つ目の高校から帝大というコースを敏夫自身は希望していたのだが、もし六年間の学生生活ならば、土光家では保有する田畑をすべて売却しなければならなくなる。それではその後の弟や妹の学費を出すのが困難になる。二つ目のコースである高等専門学校への進学を決め、挑んだのは東京高等工業で当時の高等工業のうち最難関校で、競争倍率は20倍以上。中学受験にも三回も失敗しているため、 両親にこれ以上苦労をかけたくないと思い、気台いをいれて挑んだが結果は不合格で、これで人生四回目の受験失敗。当時は予備校などもなく、 母校の大野小学校の代用教員となり、雌伏の時を過ごした。 人がやりたがらない宿直番をこなし、受験勉強にいそしんだ。
  4. ^ 就任時の取締役会での挨拶では「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」というものである(『日々に新た - わが心を語る』東洋経済新報社、1984年)。

出典

  1. ^ 岡山県名誉県民 - 岡山県ホームページ(総務学事課)
  2. ^ 岡山市名誉市民|岡山市|市政情報|岡山市長室 アーカイブ 2017年12月3日 - ウェイバックマシン
  3. ^ "土光臨調". デジタル大辞泉. コトバンクより2022年3月20日閲覧
  4. ^ 曽祖父は元経団連会長「土光瑠璃子」私も日本を動かしたい | Smart FLASH[光文社週刊誌]”. Smart FLASH[光文社週刊誌]スマフラ/スマートフラッシュ (2019年12月2日). 2020年8月13日閲覧。
  5. ^ a b 吉田, 英生 (1 2018). “特集:わが国におけるガスタービン研究・開発の先駆者”. 日本ガスタービン学会誌 46 (1): 10-11. http://www.gtsj.org/journal/vol46no1.html. 
  6. ^ 土光が出向中の1945年(昭和20年)、社名が石川島重工業に変更されている。
  7. ^ 歴史日本インダストリアル・エンジニアリング協会
  8. ^ 蔵前工業会創立100周年記念特集” (PDF). 社団法人蔵前工業会. p. 59 (2006年). 2019年11月23日閲覧。
  9. ^ 法華経に支えられた人々 第24回―食事はメザシに梅干…質素な経済界の大物は日本経済再建に尽力―土光敏夫さん」、日蓮宗新聞社HP、2014年2月12日閲覧。
  10. ^ 2011年9月4日『サンデー・フロントライン』の「発掘人物秘話」の土光敏夫特集より
  11. ^ 若林照光『土光敏夫人望力の研究』PHP研究所〈PHPビジネス文庫〉、1983年、108頁。ISBN 9784569212029 
  12. ^ 造船疑獄のエピソードについては、中曽根康弘『天地友情 五十年の戦後政治を語る』文藝春秋、1996年、p339でも言及されていた。
  13. ^ 江口克彦『成功の法則―松下幸之助はなぜ成功したのか』PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年12月。ISBN 978-4569574844 
  14. ^ まず汗を出せ、汗のなかから知恵を出せ
  15. ^ 「土光敏夫 信念の言葉」
  16. ^ 我が心を語る「日々に新た」
  17. ^ 居林次雄「財界総理側近録―土光敏夫、稲山嘉寛との七年間」、新潮社、1993年9月、ISBN 978-4103940012 
  18. ^ 主催:蔵前工業会、共催:東京工業大学、日時:2011年9月17日(土)14:00~16:00、会場:岡山市北区柳町 山陽新聞社「さん太ホール」、講演者:居林次雄氏(元 土光敏夫経団連会長秘書、弁護士)、演題:日本経済を不況から救った土光経団連会長の活躍
  19. ^ 東京工業大学同窓会誌Kuramae Journal、No.1028、p.35。
  20. ^ 東京工業大学同窓会誌Kuramae Journal、No.1028、p.41。
  21. ^ 山岡 (2013)
  22. ^ https://gendai.media/articles/-/48631?page=6


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