国民改革運動 (ガボン)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 国民改革運動 (ガボン)の意味・解説 

国民改革運動 (ガボン)

(Movement for National Rectification から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 04:12 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ガボン政党
国民改革運動
(国家改革運動)
Mouvement de Redressement National,MORENA
成立年月日 1970年代
本部所在地 フランスパリ
国民議会議席数
 / 120[1]
(2011年12月17日[1]
元老院議席数
 / 91
テンプレートを表示

国民改革運動(こくみんかいかくうんどう、フランス語: Mouvement de Redressement National、略称:MORENA英語: Movement for National Renewal)または国家改革運動(こっかかいかくうんどう)は、ガボン政党オマール・ボンゴ・オンディンバ大統領とその政権に対し野党の立場にあった。

国民改革運動は、1970年代パリ在住のガボン人亡命者によって始め結成された。ガボン民主党一党制であったガボンでは非合法な組織であった。また、フランス政府内のボンゴ政権支持派からも危険視されたため、フランス国内でも公然と活動することは難しかった。転機が訪れたのは1981年フランス大統領選挙である。フランス社会党フランソワ・ミッテランが大統領に当選したことを契機に、国民改革運動は、民主化と複数政党制の導入を軸とする政治改革プログラムを提唱し、ボンゴ政権の腐敗や犯罪行為を糾弾した。1981年秋に野党勢力の指導者となっていたジャン=イレール・オーバメ英語版元外相の訪仏に合わせてプログラムは流布されたが、ジャン=イレール・オーバメ自身はこれを支持しなかった。

1981年の11月から12月にかけて、ジェローム・ングインビ・ムビナ(Jérôme Nguimbi Mbina、ニャンガ州選出議員)など7人が逮捕された。彼等の釈放を求めデモが起こるとさらに逮捕者が増えた。結局260名が逮捕され、内37名が起訴、29名が最高で懲役20年をはじめ有罪判決を受けた。アムネスティ・インターナショナルは収監された国民改革運動のメンバーが拷問を受けたことを報告した。裁判と判決は国際的な反響を呼び、1983年ミッテランをはじめ各国の抗議を受け、ガボン当局は減刑を発表した。

パリに亡命中の国民改革運動は、ポール・ムバ・アブソール英語版神父によって指導された。ポール・ムバ・アブソール神父は非暴力とボンゴ体制との対話を強調した。ボンゴ大統領もこれに対し、与党ガボン民主党への参加を公式に表明した。国民改革運動のメンバー中何人かは、政権側の呼びかけに応じ投降していった。これに対して反ボンゴ派は、マックス・アニセー・クンバ=ムバディンガ(Max Anicet Koumba-Mbadinga)を中心にパリ亡命政権を樹立。しばしば爆弾テロを実行した。

1991年に憲法改正により複数政党制が導入されたことを契機に、国民改革運動は複数の派閥に分裂した。ポール・ムバ・アブソールは林業労働者国民連合を結成し、与党連合を形成することになる。

脚注

  1. ^ a b (英語) GABONESE REPUBLIC  LEGISLATIVE ELECTION OF 17 DECEMBER 2011”. アダム・カー. 2014年8月30日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「国民改革運動 (ガボン)」の関連用語

国民改革運動 (ガボン)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



国民改革運動 (ガボン)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの国民改革運動 (ガボン) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS