昭南忠霊塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/08 10:01 UTC 版)
昭南忠霊塔(しょうなんちゅうれいとう)は、1942年10月に、シンガポールを占領していた日本軍が、市内のブキット・バトクに建立した忠霊塔。連合軍の捕虜を使役して参道が設けられ、日本軍の占領期間中は「忠霊塔参拝」が励行された。1945年8月の日本軍降伏後に取り壊された[1]。
- ^ この文章の主な出典は、アジアエックス (2012)、リー (2007, p. 102)、エドワーズ 1992, pp. 64-71、サイレンバーグ (1988, pp. 212-213)、二松 (1987, pp. 78-81)および篠崎 (1976, pp. 210-212)。
- ^ 篠崎 1976, pp. 210-212。サイレンバーグ (1988, pp. 212-213)・二松 (1987, p. 79)でも「ブキテマの丘の上」とされているが、リー (2007, p. 102)およびアジアエックス (2012)では建立場所は「ブキット・バトク」ないし「ブキバト」とされている。アジアエックス (2012)では「慰霊塔に収められていた戦死兵たちの灰は日本人墓地に移された」としているが、篠崎 (1976, pp. 211-212)では、戦死者の遺骨は1942年2月20日に行われた(総山 1983, p. 146)合同慰霊祭の後に日本に送られており、忠霊塔には遺骨は収められていない、としている。
- ^ 二松 (1987, pp. 78-81)。横山部隊は「乾季が終わろうとする頃」にインパール作戦参加のためビルマへ転進し、交代で田村部隊が着任した(二松 1987, p. 79)。
- ^ リー 2007, p. 102.
- ^ エドワーズ 1992, pp. 64-71.
- ^ サイレンバーグ 1988, pp. 212-213.
- ^ 二松 (1987, pp. 78-81)。横山部隊の下士官や兵士は捕虜に対して高圧的に接し日常的に平手打ちなどの暴力を振るったが、田村部隊の将兵は横山部隊よりも捕虜に暖かく親切に接したため捕虜に感謝されたとされる(二松 1987, pp. 78-81、エドワーズ 1992, p. 71)。
- ^ 篠崎 1976, pp. 210-212.
- ^ a b 篠崎 1976, p. 211.
- ^ a b 小田部 1988, p. 149.
- ^ 二松 (1987, p. 80)は、同年10月に昭南神社とともに竣工した、としている。
- ^ アジアエックス (2012)。篠崎 (1976, p. 135)によると、檜の円柱。
- ^ アジアエックス (2012)、二松 (1987, p. 80)、篠崎 (1976, p. 211)。篠崎 (1976, p. 211)では、使役されていた捕虜は十字架を見て初めて作業の意味を知った、としているが、アジアエックス (2012)によると、ブキット・バトクの記念碑には、捕虜たちが日本軍の許可を得て連合軍戦死将兵のための慰霊塔を建てた、と記されている。また二松 (1987, p. 80)では、十字架標の建立は田村部隊の頃の出来事とされている。
- ^ 洪 (1986, p. 195)。『日本軍が降伏した後、これらの連中は、まるで悪夢を見ているようだった。いつまでも「東京遥拝」「忠霊塔参拝」をつづけ、大東亜共栄圏のご利益にあずかろうと望むならば、それはまさに大久保が言ったように、「馬鹿どもが寝言をいっているようなもので、哀れなほど愚かなこと」なのだ』(同)。
- ^ 第25軍軍政監部がマラヤ・スマトラのスルタンをシンガポールに招いて会議を開き、スルタンの回教の首長としての地位・尊厳と財産所有権を公式に承認した(小田部 1988, pp. 150-151)。
- ^ 小田部 1988, p. 151.
- ^ リー (2007, p. 102)は、日本軍降伏後、解放軍によって取り壊された、としている
- ^ アジアエックス (2012)。篠崎 (1976, p. 212)では、石段は取り除かれて、頂上まで自動車で登れるようになっている、としている。
- 1 昭南忠霊塔とは
- 2 昭南忠霊塔の概要
- 3 参考文献
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