アシュトン・カーゾン (初代カーゾン子爵)とは? わかりやすく解説

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アシュトン・カーゾン (初代カーゾン子爵)

(Assheton Curzon, 1st Viscount Curzon から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 09:59 UTC 版)

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トマス・ハドソンによる肖像画

初代カーゾン子爵アシュトン・カーゾン英語: Assheton Curzon, 1st Viscount Curzon1730年2月2日1820年3月21日)は、イギリスの政治家。1754年から1780年までと1792年から1794年まで庶民院議員を務めた[1]

生涯

第4代準男爵サー・ナサニエル・カーゾン英語版と妻メアリー(Mary、旧姓アシュトン(Assheton)、第2代準男爵サー・ラルフ・アシュトンの娘)の次男として、1730年2月2日に生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア英語版で洗礼を受けた[2]。1740年から1746年までウェストミンスター・スクールで教育を受けた後[1]、1747年2月6日にオックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジに入学、1754年7月2日にD.C.L.英語版の学位を修得した[3]

1754年イギリス総選挙ではカーゾン家が影響力を有するクリセロー選挙区英語版から出馬して、無投票で当選した[4]。クリセロー選挙区における102件の市民借地権英語版のうち、リスター家(Lister)とカーゾン家が共同で過半数となる53件を所有していたため、同選挙区は2家の懐中選挙区であり、以降1774年イギリス総選挙までカーゾンは無投票での再選を繰り返した[4]1761年イギリス総選挙では兄ナサニエル英語版ダービーシャー選挙区英語版でカーゾンを推薦しようとしたが、カーゾンは辞退している[1]。しかし、1780年イギリス総選挙ではリスター家のトマス・リスター英語版が裏切り、2家が共同で所有する市民借地権の投票を拒否したため、市民借地権102件のうち53件が投票できず、残り49件のうちリスター家が30件を所有したため、アシュトンは17票しか得られず、33票と31票を得たリスター家の候補2名に敗れた[4]1784年イギリス総選挙でも同様の結果になったが[4]、2家は1790年イギリス総選挙までに和解、カーゾンの長男ペン・アシュトンは1790年の総選挙で当選した[5]。1792年にペン・アシュトンがレスターシャー選挙区英語版の補欠選挙に出馬してクリセロー選挙区の議員を辞任すると、カーゾンは再び出馬して無投票で当選、以降1794年に叙爵されるまで議員を務めた[5]

議会ではトーリー党に所属し、グレンヴィル内閣期の1763年秋にチャールズ・ジェンキンソン英語版から政府支持であると評され、第1次ロッキンガム侯爵内閣期(1765年 – 1766年)に印紙法廃止法案に反対票を投じ、チャタム伯爵内閣期(1766年 – 1768年)にも野党に同調して投票した[1]ノース内閣期(1770年 – 1782年)では『ザ・パブリック・レジャー英語版』紙が1779年に「与党側で投票するものの、内閣大臣に賛成できないときは庶民院を退出することもある」と評しており、1780年には商務庁廃止の採決で野党に同調して投票した[1]。2度目の議員期(1792年 – 1794年)では投票と演説の記録がなかった[6]

第1次小ピット内閣期(1783年 – 1801年)の1794年8月13日にグレートブリテン貴族であるバッキンガムシャーにおけるペンのカーゾン男爵に叙された[2][7]。アディントン内閣期(1801年 – 1804年)に首相ヘンリー・アディントンにより、同じく男爵位を所有している兄ナサニエルを差し置いて[6]1802年2月27日に連合王国貴族であるバッキンガムシャーにおけるペンのカーゾン子爵に叙された[2][8]。パーシヴァル内閣期(1809年 – 1812年)に首相スペンサー・パーシヴァルに対し伯爵位への叙爵を申請したが、これは失敗に終わっている[6]

1820年3月21日に死去、息子ペン・アシュトンに先立たれたため孫リチャード英語版が爵位を継承した[2][9]。遺産は12万ポンドに満たないという金額だった[2][6]

家族

1756年2月23日、エスター・ハンマー(Esther Hanmer、1764年7月21日没、ウィリアム・ハンマーの娘)と結婚[2]、1男2女をもうけた[9]

  • ペン・アシュトン(1757年1月31日 – 1797年9月3日) - 庶民院議員。1787年7月31日、ソフィア・ハウ(1762年2月19日 – 1835年12月3日、初代ハウ伯爵リチャード・ハウの娘、1799年に第2代ハウ女男爵)と結婚、子供あり。第2代カーゾン子爵・第3代ハウ男爵・初代ハウ伯爵リチャード・カーゾン=ハウ英語版の父
  • エスター(Esther、1839年11月7日没) - 1778年1月8日、第2代準男爵サー・ジョージ・ブロムリーの娘と結婚、子供あり
  • メアリー(1760年2月11日 – 1804年9月19日) - 1779年7月1日、第2代ストール男爵ヘンリー・ビルソン=レッグ英語版と結婚、子供あり

1766年2月6日、ドロシー・グローヴナー(Dorothy Grosvenor、1774年2月25日没、第6代準男爵サー・ロバート・グローヴナーの娘)と再婚[2]、2男2女をもうけた[6]

  • アシュトン(1771年6月1日 – ?)[10]
  • ロバート英語版(1774年2月13日 – 1863年5月14日) - 庶民院議員。1808年10月14日、ハリエット・アン・ビショップ(1787年9月7日 – 1870年11月15日、1829年に第13代ズーシュ女男爵)と結婚、子供あり[9]
  • エリザベス(1859年4月14日没)[10]
  • シャーロット - 1799年、ダグデイル・ストラトフォード・ダグデイル(Dugdale Stratford Dugdale)と結婚[10]

1777年4月17日、アンナ・マーガレッタ・トレコシック(Anna Margaretta Trecothick、旧姓メレディス(Meredith)、1804年6月13日没、バーロー・トレコシックの未亡人、アモス・メレディスの娘)と再婚したが[2]、2人の間に子供はいなかった[6]

出典

  1. ^ a b c d e Brooke, John (1964). "CURZON, Assheton (1730-1820), of Penn House, nr. Amersham, Bucks.". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月17日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 582–583.
  3. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). 1. Oxford: University of Oxford. p. 330.
  4. ^ a b c d Brooke, John (1964). "Clitheroe". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月17日閲覧
  5. ^ a b Port, M. H. (1986). "Clitheroe". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月17日閲覧
  6. ^ a b c d e f Port, M. H. (1986). "CURZON, Assheton (1730-1820), of Penn House, nr. Amersham, Bucks. and Hagley, Staffs.". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年1月17日閲覧
  7. ^ "No. 13692". The London Gazette (英語). 9 August 1794. p. 818.
  8. ^ "No. 15456". The London Gazette (英語). 23 February 1802. p. 199.
  9. ^ a b c "Curzon, Viscount (UK, 1802)". Cracroft's Peerage (英語). 2021年1月17日閲覧
  10. ^ a b c Burke, Sir Bernard (1865). A Genealogical and Heraldic Dictionary of the Peerage and Baronetage of the British Empire (英語) (27th ed.). London: Harrison and Sons. p. 597.

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代:
トマス・リスター(父)
ナサニエル・カーゾン英語版
庶民院議員(クリセロー選挙区英語版選出)
1754年1780年
同職:トマス・リスター(父) 1754年 – 1761年
ナサニエル・リスター 1761年 – 1773年
トマス・リスター(子)英語版 1773年 – 1780年
次代:
トマス・リスター(子)英語版
ジョン・パーカー英語版
先代:
サー・ジョン・オーブリー準男爵英語版
ペン・アシュトン・カーゾン
庶民院議員(クリセロー選挙区英語版選出)
1792年 – 1794年
同職:サー・ジョン・オーブリー準男爵英語版
次代:
サー・ジョン・オーブリー準男爵英語版
リチャード・アール=ドラックス=グローヴナー英語版
イギリスの爵位
爵位創設 カーゾン子爵
1802年 – 1820年
次代:
リチャード・カーゾン=ハウ英語版
グレートブリテンの爵位
爵位創設 カーゾン男爵
1794年 – 1820年
次代:
リチャード・カーゾン=ハウ英語版



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