1911年のパリ・マドリード間レースとは? わかりやすく解説

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1911年のパリ・マドリード間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 04:14 UTC 版)

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1911年のパリ・マドリード間レース(せんきゅうひゃくじゅういちねんのパリマドリードかんレース)は、1911年5月21日から26日の間に行われた、飛行機によって最初に行われた本格的な長距離飛行レースである。文字通りパリからマドリード(マドリッド)までで行われた。

10万フラン賞金が懸けられ、1200kmの距離で争われるはずのレースだったが、当時の飛行機の技術レベルに対しては過酷なレースであり8機の参加機のうちマドリードまで飛行できたのは1機だけだった。出発時に大きな事故がおきた。

レースは3ステージに分けられ、第1ステージはパリからアングレーム、第2ステージはアングレームからスペイン国境のサンセバスチアン、第3ステージがマドリードまでであった。

参加者

参加者と乗機は以下のとおりである。

スタートと事故

トランの事故の写真

5月21日、20万人ともいわれる観衆が イシー=レ=ムリノー飛行場に集まり、1911年5月21日の午前6時に参加者の離陸が始まった。ボーモンとジルベール、ギャロス、ルラスールは離陸に成功したが、フライは離陸に失敗し、ヴェドリーヌの飛行機は準備が整わず翌日出発することになった。

5番目に出発したトランの機は唯一、同乗者を乗せることができ、同乗者を乗せていたが、飛行機の調整は十分でなく、離陸すると飛行が不安定となり、出発点に戻ろうとして観衆の中に突っ込んでしまった。来賓の国防大臣モーリス・ベルトゥー (Maurice Berteaux) やフランス航空界の大御所、アンリ・ドゥッシュ=ド=ラ=ムルトらが負傷した。最も深刻だったのは国防大臣のモーリス・ベルトゥーでプロペラで頭と腕を負傷し、飛行場で死亡した。事故の様子は映画に記録されており、翌日パリで公開されたニュース映画は大きな衝撃を与えた。

レースの結果

第1ステージを飛行し、アングレームに到着できたのは、ギャロス、ジルベール、ヴェドリーヌの3人であった。

フライは Etampes に不時着しリタイアした。ルラスールは進路を失い、ボーモンは2時間以上を飛行したところで、プロペラを破損しリタイアした。ギャロスが390kmを4時間48分で飛行した。5月23日のサンセバスチアンまでの第2ステージに出発できたのは、ギャロスとヴェドリーヌだけになっていた。ヴェドリーヌが335kmを3時間45分で飛行し、ギャロスより2時間先着した。5月25日にスタートした第3ステージでギャロスは20km飛行したところで不時着し、再度飛び立ったがVitoria近くのOlazagutiaで飛行を中止した。ヴェドリーヌは夕刻、Burgosに着陸し、翌日の8時にマドリードから15kmのGetafe飛行場に到着して優勝した。

参考文献

  • Almanach Pratique du Petit Parisien, 1911
  • Biographie de M. Berteaux sur le site de Maisons Laffitte

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