黄炳珪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/20 08:23 UTC 版)
黄 炳珪(ファン・ビョンギュ、朝鮮語: 황병규/黃炳珪、1907年 - 1984年2月17日)は、大韓民国の政治家。制憲・第2代韓国国会議員、第6代(旧)麗水市長を歴任した[1]。
経歴
全羅南道麗水郡出身。麗水水産学校(現・全南大学校麗水キャンパス)卒。朝鮮共産党ML派党員、面長、漁業組合長、制憲国会水産分科委員・幹事、大韓国民党員、第2代国会商工委員長、自由党員、第6代(旧)麗水市長(1955年9月26日[2]〜1958年2月22日[3])を務めた。市長在任中は梧桐島防波堤の完成や突山実業高等学校(現・麗水海洋科学高等学校)の設立など地域開発事業を進めた。政界引退後はまた水産業に従事し、1972年には制憲同志会のメンバーとして10月維新を支持する声明の発表に参加した[4][1][5]。
1984年2月17日、老衰により麗水市忠武洞の自宅で死去。享年75[6]。
エピソード
1948年6月、憲法起草委員を中心に憲法草案を考案した時、黄は第56条の非常措置権条項(戦時中または非常事態を除き、公共の安寧秩序を維持するために緊急措置を取る)および第68条の「国務総理と国務委員は大統領が任命する」を「専制政治の危険性のある毒素条項」と批判した[4]。
1950年の第2代総選挙で選挙区改編により麗川郡選挙区から出馬した際、離島の住民を念頭に「島の人も人なり、島にも人がいる」というキャッチフレーズを使った[4]。
脚注
- ^ a b “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年3月19日閲覧。
- ^ “市長(시장)에黃炳珪氏(황병규씨)”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1955年9月29日). 2025年3月20日閲覧。
- ^ “역대”. 麗水市. 2025年3月20日閲覧。
- ^ a b c 손동유, “황병규 (黃炳珪)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院) 2025年3月20日閲覧。
- ^ “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年3月20日閲覧。
- ^ “제헌의원 黃炳珪(황병규)씨”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1984年2月18日). 2025年3月19日閲覧。
- 黄炳珪のページへのリンク