高柳信英とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 高柳信英の意味・解説 

高柳信英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/05 15:20 UTC 版)

高柳 信英
基本情報
出身地 茨城県鉾田市
生年月日 1952年10月26日
身長
体重
174 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ・監督歴

高柳 信英(たかやなぎ のぶひで、1952年10月26日 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは捕手。字形の異なる髙栁 信英と表記されることもある[1]。実弟は元プロ野球選手の高柳秀樹

来歴・人物

茨城県鉾田市出身。国士舘高校では1970年夏の甲子園都予選で準々決勝に進むが、帝京商工に敗退。卒業後は国士舘大学に入学する。東都大学野球リーグでは在学中二部リーグにとどまるが、1974年秋季リーグで優勝、入替戦で日大を降し翌年からの一部リーグ昇格を決める。

大学卒業後は、社会人野球の日本楽器チームに入団する。チームでは捕手として6年間プレーし、1976年都市対抗では大昭和製紙の補強選手として、大会初出場を果たす[2]1979年都市対抗は久保真一郎、藤原仁らとバッテリーを組み準決勝に進む。三菱重工広島に敗退するが、首位打者を獲得し大会優秀選手に選ばれる[3]。翌1980年社会人野球日本選手権では主将を務め決勝に進むが、日本鋼管福山田村忠義に抑えられ準優勝にとどまる。

1981年のシーズンをもって現役を引退し、9年間コーチと助監督を務めた。1997年から1998年2006年から2010年までにヤマハの監督を務め、都市対抗野球への出場を7回、社会人野球日本選手権への出場を3回果たし、両大会を通じて、5回チームをベスト8に導いた。

その後は、ヤマハで副部長とスカウトを務めた後に、2012年から静岡産業大学の監督を務めた。

現在は静岡県野球協会の理事を務める[4]

脚注

  1. ^ 第82回都市対抗野球大会 (8年連続35回目出場) - ヤマハ野球部”. ヤマハ株式会社. 2020年12月27日閲覧。
  2. ^ 「日本社会人野球協会会報1976」日本社会人野球協会 1977年 p44
  3. ^ 「日本社会人野球協会会報1979」日本社会人野球協会 1980年 p36
  4. ^ NPO法人静岡県野球協議会/法人についての説明です。”. 2020年12月27日閲覧。

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  高柳信英のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高柳信英」の関連用語

高柳信英のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高柳信英のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高柳信英 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS