長崎県忠霊塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 15:56 UTC 版)
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長崎県忠霊塔(ながさきけんちゅうれいとう)は、長崎県大村市三城町三城城跡本丸地に鎮座する忠霊塔。[1][2]1934年(昭和9年)9月に建立された[3]。
戊辰戦争以降の長崎県籍戦没者6万7百余柱を祀る長崎県の中核的な戦没者追悼施設である[3]。
概要
県忠霊塔建立委員会(大村連隊区司令部・大村連隊・長崎県・県下市町村で構成)が主体となり、県民からの寄付と勤労奉仕により建立された[3]。敷地は三城城の跡地で、国及び大村市が所有しており面積は21,407平方メートルある[3]。鉄筋コンクリート製で中央に三重塔(高さ23メートル)を持ち、屋根は銅板葺という構造である[3]。日中戦争から太平洋戦争にかけては、塔の前で出征部隊の出兵式も実施された[3]。
維持管理は、太平洋戦争中までの主催団体である長崎県忠霊塔奉賛会が終戦とともに自然解消したのち、1954年に発足した長崎県殉国慰霊奉賛会(長崎県戦没者慰霊奉賛会)が執り行っている[4]。ただし実務上は上野家が忠霊塔の神職を務めて[5]、管理奉仕人として担い[要出典]、2025年時点では大村市の非営利団体・公益研の独立機関である長崎県忠霊塔参事局や[6][7]、長崎県忠霊塔御参会最高顧問の神葵(じん あおい)が[8][9]、実務をおこなっている。
脚注
- ^ 大村市. “三城城跡”. 大村市. 2025年5月24日閲覧。
- ^ “三城城跡範囲確認調査報告書”. 全国文化財総覧. 2025年5月24日閲覧。
- ^ a b c d e f 「II 戦没者追悼施設 (PDF) 」『長崎県の戦争遺跡 と 戦没者慰霊碑』長崎県福祉保健部原爆被爆者援護課、2011年12月(2023年3月更新)、p.45
- ^ 「忠霊塔等の祭祀確立 長崎県殉国慰霊奉賛会が結成さる」(PDF)『大村市政だより』第41号、大村市、1954年9月20日、1頁。
- ^ “『肥前のいにしえ』‐肥前の古きを知る‐”. 『肥前のいにしえ』‐肥前の古きを知る‐. 2025年5月24日閲覧。
- ^ “長崎県忠霊塔参事局”. NPO.公益研. 2025年5月24日閲覧。
- ^ “令和7年度 大村市ボランティアセンター「あいわーく」ボランティアグループ 一覧” (PDF). 2025年5月24日閲覧。
- ^ “じんあおい氏、長崎県忠霊塔の維持活動に尽力〜市民の手で〜”. じんあおい後援会note (2025年2月15日). 2025年5月23日閲覧。
- ^ “慰霊を通して 〜じんあおいと長崎県忠霊塔御参会〜”. じんあおい後援会note (2025年2月23日). 2025年5月23日閲覧。
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