金光宅吉とは? わかりやすく解説

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金光宅吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/06 14:42 UTC 版)

金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日1855年2月11日) - 明治26年(1893年)12月20日)は、金光教の二代金光様

略歴

今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。

妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)[1]との間に、4男4女をもうけた。金光攝胤(せつたね)、堤一二野(ひふの)[2]、佐藤女子(ひめこ)[3]、近藤明道(あきみち)[4]、白神根能勢(ねのせ)[5]、金光国開(くにはる)[6]、金光三代太郎(みよたろう)[7]、金光塩野(しおの)[8]の8人である。

40歳で死去。遺言により息子の攝胤(せつたね:1880 - 1963)が13歳で取次の座についた。(攝胤は、三代金光様と呼ばれ、教団独立後の信仰の中心となった)。

参考文献

  • 金光大神(2003年、金光教本部教庁刊、ISBN 4-906088-15-5
  • 金光四神様(1993年、金光真整著、金光和道編、金光教若葉刊行会発行)

脚注

  1. ^ 喜代:安部三平・與志の長女。
  2. ^ 一二野:「飛婦野」とも書かれる。明治15年(1882年)2月10日生。明治23年(1890年)5月6日に高宮教会長堤清四郎の養女として入籍、福嶋儀兵衛の三男政治郎を養子として迎える。なお、政治郎の兄福嶋儀助には、叔母にあたる安部家の次女登加が嫁している。
  3. ^ 女子:明治18年(1885年)4月24日生。「にょし」が正しい読みとされる、明治30年(1897年)、芸備教会長佐藤範雄の長男佐藤一夫の許嫁となり、明治40年(1907年)8月29日妻として入籍。
  4. ^ 明道:明治20年(1887年)1月13日生、同年9月5日難波教会長近藤藤守の養子となる。難波教会二代目教会長。
  5. ^ 根能勢:明治21年(1888年)8月14日生。大阪教会白神新一郎 (二代目)の養女として、明治24年(1891年)12月1日に入籍、白神新一郎 (三代目)の妻。
  6. ^ 国開:明治23年(1890年)3月1日生。明治27年(1894年)6月28日、金光金吉の養子として入籍。
  7. ^ 三代太郎:明治24年(1891年)11月22日生。
  8. ^ 塩野:明治26年(1893年)9月14日生。
先代
金光大神
二代金光様
1883-1893
次代
金光攝胤



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