郁久閭皇后とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 郁久閭皇后の意味・解説 

郁久閭皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 01:53 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
郁久閭皇后
西魏の皇后
在位 538年3月 - 540年

別称 悼皇后
出生 525年
死去 540年
埋葬 永陵
配偶者 文帝
父親 阿那瓌
テンプレートを表示

郁久閭皇后(いくきゅうりょこうごう、525年 - 540年)は、西魏文帝の2人目の皇后柔然の出身。

経歴

柔然の阿那瓌の長女として生まれた。容色は端厳と評され、知恵を持っていた。

大統初年、柔然がたびたび西魏の北辺を侵犯したため、文帝は柔然と盟約を結び、通婚を約束した。西魏の扶風王元孚が彼女を迎える使者として立った。元孚が南面を請うたが、彼女は「わたしは魏主にまみえていないのだから、柔然の娘である。魏の武官が南に向き、わたし自らは東面しよう」と答えた。

538年(大統4年)1月、長安に入った。3月、皇后に立てられた。540年(大統6年)、懐妊し、難産が祟って死去した。享年は16。少陵原に葬られた。551年(大統17年)、永陵に合葬された。悼皇后された。

伝記資料

  • 北史』巻13 列伝第1

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「郁久閭皇后」の関連用語

1
58% |||||

2
36% |||||


郁久閭皇后のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



郁久閭皇后のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの郁久閭皇后 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS