蕭宝攸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 02:08 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動蕭 宝攸(蕭寶攸、しょう ほうゆう、生年不詳 - 502年)は、南朝斉の皇族。『南史』では、蕭宝修(蕭寶脩)と書かれる。邵陵王。明帝蕭鸞の九男。字は智宣。
経歴
蕭鸞と管淑妃のあいだの子として生まれた。494年(建武元年)11月、南平郡王に封じられた。495年(建武2年)9月、邵陵王に改封された。496年(建武3年)、北中郎将となり、琅邪城に駐屯した。499年(永元元年)2月、持節・都督南北徐南兗青冀五州諸軍事・南兗州刺史となった。赴任しないうちに、征虜将軍・領石頭戍事に転じた。12月、陳顕達の乱が鎮圧されると、宝攸は持節・都督江州諸軍事・左将軍・江州刺史に任じられた。建康に召還され、中軍将軍・秘書監に任じられた。501年(永元3年)2月、荊州刺史に任じられた。502年(中興2年)3月、謀反の罪で宣徳太后の令により死を賜った。
伝記資料
- 『南斉書』巻50 列伝第31
- 『南史』巻44 列伝第34
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