蔡珍
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蔡 珍(さい ちん、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。彰徳府安陽県の出身。
生涯
蔡珍の父の蔡興は幼いころからモンゴル軍の軍籍に身を置き、第一次南宋出兵では諸王クウン・ブカの下に属し権管軍百戸に任じられた人物であった[1]。
蔡興は老齢となると自らの地位を蔡珍に譲り、蔡珍は1258年(戊午)からモンケ・カアンによる釣魚城攻めに加わっている。1260年(中統元年)、モンケ・カアンの死去に伴って帝位継承戦争が勃発すると、クビライの派閥に着いてアリクブケ派の討伐に加わった。1262年(中統3年)には李璮の乱討伐に加わり、その後は南宋領の襄陽城包囲や、五河口攻めに従軍して功績があった[2]。
1277年(至元14年)には忠顕校尉・管軍総把、ついで権千戸に任命された。同年冬には黒城に駐屯し、このころ築いた土室は厳冬期に重用されるようになったという。1278年(至元15年)には宿衛都鎮撫、1279年(至元16年)には忠武校尉・後衛親軍総把などを歴任している[3]。
1284年(至元21年)に膠東海道都漕運司丁壮万戸府都鎮撫に改められ、1290年(至元27年)には後衛親軍千戸の地位に進んだ。1295年(元貞元年)には老齢を理由に地位を息子の蔡恕に譲り、自らは帰郷した[4]。
脚注
- ^ 『元史』巻166列伝53蔡珍伝,「蔡珍、彰徳安陽人。父興、幼隷軍籍、従宗王口温不花出征、権管軍百戸。興告老、以珍代之」
- ^ 『元史』巻166列伝53蔡珍伝,「珍素驍勇。歳戊午、従憲宗攻宋合州釣魚山。中統元年、従世祖征阿里不哥。三年、従征李璮。後従鎮襄陽、徇安慶、攻五河、所至有功」
- ^ 『元史』巻166列伝53蔡珍伝,「南方平、遂入備宿衛。十四年、授忠顕校尉・管軍総把、尋命権千戸。是年冬、扈駕駐黒城。珍遣兵士儲芻藁、築土室、軍府頼其用。道遇凍者、必扶入密室温煦之。軍糧必為撙節、不使頓絶以致饑困。十五年、充本衛都鎮撫。十七年、陞忠武校尉・中衛親軍総把、俄改属後衛、賜銀符」
- ^ 『元史』巻166列伝53蔡珍伝,「時白海初建行営、命珍督役、卒事、民不知擾、雖草木無繊介損。帝臨幸、問其故、近臣以蔡珍号令厳粛為対、帝嘉之、賞以鈔若干。二十一年、改授膠東海道都漕運司丁壮万戸府都鎮撫。二十七年、進後衛親軍千戸、佩金符。元貞元年、進階武略。俄告老而帰、子恕襲」
参考文献
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